四阿の二人(後編)
遮られても、ここが最後と思えば言わずにはいられなかった。
「生涯、こんなに尊敬できる相手になんか決して会えないと思っていました。愛とか恋とか、男を落とす手管なんかもうどうでもいいんです。先生のおそばにいられさえすれば」
「……愛とか恋とか肉欲で、骨抜きにしてしまえば良かったのに。私を」
口の端をつりあげたような、皮肉っぽい笑みを向けられて、リーエンはとんでもない! という思いのままに続けた。
「まさか。本来の先生じゃない先生のそばにいても何も嬉しくありません。心の底から、誰に恥じることもなく全身全霊でお慕いしているのは、天才の先生なんです。僕ごときが指を触れたり、話しかけたりなんかできない天上の至高存在。……好きすぎて、結局話しかけてしまうんですけど。声が聞きたくて」
「リーエン、もうやめてくれ」
エスファンドは、自分の立てた膝の間に顔を突っ伏してしまった。
「黙りません。先生は、天才なんだからもっとしっかりしてください。ほら、顔を上げて」
「天才なんだから少しの奇行くらいあたたかい目で見てよ。君は君の崇拝する至高存在に対して厳し過ぎだろ」
「厳しいくらいでいいんです! 弟子たちの間ではですね、先生、先生という貴重種をいかに保全するかの話し合いが度々開かれていてですね!!」
エスファンドの弟子にはエスファンドより年嵩の者もいたが、誰もがその才覚に惚れ込んでしまっていた。皆、あまりに好き過ぎて、研究の合間には決まってエスファンドの話をしていたのだ。恋をするとその相手のことばかり考えてしまうという状態に似ている。
この場合、弟子たちは一様にエスファンドのことが好きなのでいくら話しても食傷気味になることはない。中には格別の寵愛を受けたいと思う者もいたが「先生が好きなのは学問だ」という結論の前に、競って取り組むのはいかに自分を高めて先生の業績に貢献できるかという一点だった。色事云々という考えは、リーエンもごく初期に捨てざるを得なかったのである。
弟子に激しく「愛でられ包囲網」を築かれていたことを察したエスファンドは、さめざめとした泣き真似を披露して後、言った。
「私も肉欲に溺れて享楽の坂を転げ落ちてみたかった」
リーエンは極めつけの無表情で言った。
「絶対に許しません。先生を堕落させるような女なんか。それくらいなら、僕の身体でも使って適宜欲望を吐き出してください。他の女の人は駄目です」
沈黙が二人を包み込んだ。
ややして、微苦笑を浮かべたエスファンドが言った。
「そこまで言うなら、君が女として、男の私に溺れなさいよ」
怪訝そうに、リーエンは眉を寄せた。
その反応を予期していたように、エスファンドは笑みを深めた。
「骨抜きにしない程度に、私を転がすつもりがあるというのなら、してみればいい」
エスファンドに手招きをされて、リーエンは自由にならない身体をよじりながらなんとか距離を詰める。エスファンドの指が、頬にかかった黒髪を梳くようにして、払った。そのまま耳を摘まれる。爪をたてられ、鋭い痛みにリーエンは悲鳴をあげそうになり、辛うじて口から息を吐き出して堪えた。
何事もなかったように、エスファンドの指はリーエンの髪を優しく梳く。
「君のそんな理性、私がすぐにぐずぐずに溶かして、今よりもずっと私なしでいられない身体にしてあげる。私より優位に立とうとした傲慢さを滅茶苦茶に踏みにじってあげるから、泣いて喜びなよ」
言葉選びは冷ややかで、けれど声は痺れるほどに甘く。
かすかな苛立ちを抑え込んだように抑制が利いていてるのに、得体の知れない感情がじわりと滲みだしている。
「先生……?」
エスファンドの指が顎の線をなぞり、唇に触れる。
「私のそばにいる限り、君は今晩を限りに祖国も仲間ももしかしたら親兄弟もすべて失うだろう。私を選ぶというのはそういうことだ。とはいえ、縛り上げて君の意志を奪い、どこにも行かせなかったのは私だ。もう私以外見ないように、考えないように。溺れなさい」
衣擦れの音をさせて立ち上がったエスファンドは、リーエンの後ろに回り込んで、腕や足の縛めに軽く触れた。
リーエンはすでに気付いていたが、訓練を受けている身でも外しようがない確かさだった。暴れてもほとんど緩んだ気配がない。あの少年は、その辺の技術がかなりしっかりしているらしい。
それを改めて確認し終えたらしいエスファンドは、ひそやかな溜息をついてリーエンの頭を撫でた。
そして、厳粛な声で告げた。
「万が一にも逃げられたくないから、今日はこのまま抱くよ。優しくはできないが、受け入れるように」
言われた内容に、頭での理解が追いつかなかった。
ただ、エスファンドの唇を頬に感じたときに、(祖国も仲間も……)という言葉が甦ってきて、大きすぎる喪失感に襲われてきつく目を閉じた。
優しくはできないと言ったくせに、エスファンドの唇に、指に、息遣いにすら労りを感じて、泣くまいと思いながらリーエンは覚悟せざるを得なかった。
選んだのか、選ばされたのか。
二人の身体がひとつに溶け合う頃には何もわからなくなっていることを、祈りながら。