痛みを伴う口づけ(3)
セリスが答えかねていると、アーネストの腕がゆるんだ。逃げてもいいという意味のように受け取れたが、本当に逃げて良いのかはわからなかった。体が強張っていて、すぐには動けない。
「ま、オレやあいつやのうても、誰でもできるんや。姫さまぼーっとしとるし、弱いし」
「返す言葉もありません」
少しずつ。
自然に見えるように、アーネストから身体を離しつつ、セリスは情けない思いを口にした。
「弱くてごめんなさい。アーネストの負担ばかり増やしてしまう」
「それはええんやけど。いまのは『野蛮人』いうて、オレに怒ってもええところやで」
なんとか歩き出したが、いつにもまして妙にアーネストが絡んでくる。
この受け答えを間違えたらいけないと、緊張感を覚えながらセリスは言った。
「アーネストに、そんなことは言えません」
「それはおかしいわ。オレやのうて、あいつには言えるのに」
秒も待たずに返されて、セリスは一度口をつぐんだ。さらに慎重に言葉を選んで、告げた。
「それであの人がわたしを嫌うなら、構わないんです。わたしはあの人を縛ることができない。でも……、アーネストに嫌われたら生きていけない」
「オレを縛りたいの?」
(いまはこんな話をしている場合じゃなくて、先を急がないと)
その思いから、絶対に足を止めないように、前を向く。
セリスはさらに足を速めて、アーネストの前に回り込んだ。ぶつかる前に、アーネストも足を止める。
乏しい光の中で、アーネストの目を見上げて、セリスはほとんど怒りのようにその言葉を口にした。
「もうずっと前から縛っている。あなたはわたしが命を預ける相手です。そんなの、二人で旅に出たときからとうにわかっていることでしょう。わたしはあなたに甘えているし、縛っているし、こんなことにまで付き合わせている。あなたから離れて、あなたなしでは自分が生きられないことを知っているからです。あとは何が聞きたいんですか? わたしはどれだけあなたに思いを告げればいいんですか? いくらでも言えますけど!?」
言い争いをしている場合ではないというのに。
アーネストはゆっくりとその場にしゃがみこんで、両手で顔を覆ってしまった。
「立ってください。時間の無駄です」
セリスは容赦なく言葉を浴びせ、アーネストの蜜色の髪を軽く指に搦めて引っ張る。その手の下で、くぐもった声がもれた。
「ほんまに、たいがいにせえや……。姫さまのそういうとこ、嫌や……。あかん」
「開き直り過ぎて可愛げがないって言うんですよね。知っています。兄様によく怒られていました。姫は性格が悪い、とはっきり言われていました。いいんですよもう! 行きますよ!」
のろのろとアーネストは立ち上がったが、片手で口元を覆ったまま。暗がりでもはっきりと顔が赤い。
それが、無闇に苛立ったままのセリスを刺激した。
「そんなにわたしに口づけたのが嫌なら、隠してないで拭いていいですよ。わたしが拭いてあげてもいいですよ!? あれはわたしの危機感の薄さに対する警告の意図だと思いますけど、やりすぎたなって自分でいま思ってるんでしょう!?」
「姫さま、声、大きい」
アーネストがセリスの口に手をあてる。
口をおさえつけられたまま見上げたアーネストの顔は、まだ少し赤みを帯びていたが、概ね、普段の余裕を取り戻しつつあった。
それを見たら、不覚にも涙が滲みそうになった。
「泣いてる?」
口から手を浮かすように軽く外して、アーネストが聞いて来る。
「泣いてません。もう騒がないので、大丈夫です」
アーネストの様子がおかしくて、心配して、いまは安堵しただなんて、言えない。
顔を見られたくなくて俯こうとしたら、アーネストが親指の腹でセリスの唇をなぞった。
「姫さまのことはいけずすぎて嫌なんやけど、口づけは嫌やない。何度だってしたい。姫さまに」
言うだけ言って歩き出す。
置いていかれそうになって、追いかけて、肩を並べる。
言われた意味が全然わからなかったが、明らかにするのは恐ろしいので、今は確認しないことにした。
(口づけをする? 何度も? アーネストとわたしが?)
実際にはさほどの時間は経っていないはずだが、二人とも話し過ぎた気がして寡黙に進んだ。やがて神殿の壁が終わりに近づいた頃、前方で話し声がした。
セリスとアーネストは、目配せをして、近くの灌木の茂みに身を隠す。白っぽい服装のセリスの身体を、黒装束のアーネストが覆うように抱き寄せた。
「東国の……言葉のようですね」
同じく耳を澄ませていたアーネストが、小さく溜息をついた。小さくはあるが、重いその溜息を耳元で聞きながら、セリスは言った。
「はっきりわかりませんが、四、五人……。アーネスト」
わからない言葉の中に、甲高い女性の悲鳴が混じる。男たちが笑う。
状況的にも、不意をつけば……だが確実に多勢に無勢。わかっていながらも、セリスは名を呼んで、頼まざるを得なかった。
「あのひとを助けてください」
悲鳴が上がるたびに、セリスは顔をしかめ、耐えきれずにその言葉を口にしてしまった。
アーネストが、何かを苦いものを飲み込んだのを感じた。
「わかった。だけどこれは言っておく。オレは姫さまが大事や。だから絶対に、誰にも見つからんといて。何があっても、出て来ないでや」
言い終えて、アーネストは音もなく立ち上がる。
「気を付けてください。わたしもあなたが大事ですっ」
小声で早口でそれだけ告げると、アーネストが笑った気配が空気にのって伝ってきた。
その気配もすぐに立ち消える。
闇に紛れるように、アーネストが進んで行く。
祈るようにその姿を見送ったセリスであったが、不意に生臭い呼気が頬をかすめたのを感じ、立ち上がりながら逃れようとした。
足首を掴まれて引き倒され、何か大きなものにのしかかられて口もふさがれた。
声を出せない。
もしアーネストが振り返っても、もうこの昏さでは見えないだろう。
(自分でどうにかするしかない……!)
脳裏をかすめたのは、アルスより受け取っていた細剣。
手足の自由が完全に奪われる前に、戦うしかなかった。