痛みを伴う口づけ(2)※
「姫さまは、このへんで、どこかに隠れて」
大きな石造りの神殿の側壁に沿って早足に進みながら、躊躇いがちにアーネストに言われて、セリスは「いえ」と短く答えた。
神殿とは反対、右手側の方はゆるやかな傾斜に背の低い木々が生えている。その向こうに都市をとりまく壁がある。身を隠すものがなさそうなので、ぎりぎりまで壁には近づかない。もちろん、灯りを持つこともない。それでも、月明かりが朧に二人の道行きを照らしていた。
「わたしにとって一番安全なのは、あなたの側だから」
本当は、なんの役にも立たないセリスはエスファンドの四阿にいた方が……との思いはある。そこがアルスの保証した安全な場所というのなら、騒乱に巻き込まれずに済む可能性も高い。
すべて仮定の話だ。
もしそこまで襲撃の手が及んだ場合、セリスは自分自身を守ることすら危うい。刃物の扱いを知ってはいるが、まったく訓練を受けていない者よりはマシ、程度だ。力だって弱い。
(……ゼファード兄様に関しては、「普段は剣を持たないけど、いざとなれば強い」ということもなく、武芸はからっきしであると本人も周囲も認めていて……。「毎日訓練している分、姫の方が私よりは強いんじゃないかな」って兄様本人も私に言っていましたし。月の王家は、代々運動神経のようなものが鈍いのでは)
どうあってもろくに強くなれない事実について考えていたせいで、セリスはアーネストに手を掴まれたことに気付くのが遅れた。
顔を上げたときには、肩を押されて神殿の石壁に背を押し付ける態勢になっていた。
(アーネスト?)
向き合ったままうなだれたアーネストの額が、肩口に触れる。顔が見えない。
セリスは、掴まれていない左手を伸ばして左肩にのっているアーネストの頭にそっと触れた。布は取り払っているので、柔らかい髪の感触を指に感じる。
ややして、アーネストがくぐもった呟きをもらした。
「……姫さま、背中、冷たい?」
「少し」
言われて意識したせいか、石壁から夜気が伝わって、身体がぞくりと震える。
その次の瞬間、腕を強く引かれてアーネストの腕の中に引きずり込まれていた。
何が起きているのかわからないまま見上げたところで、腰をとらえられ、後頭部には手を回され固定されて、唇に唇が重ねられる。
身動きもできずそれを受けて、セリスは目を見開いたまま硬直していた。
時間経過がわからない。一瞬というほど短くはなかった気がするが、いつ終わるのかと思った頃、唇に舌が触れていると気付いて咄嗟にアーネストの胸に手を突き立てた。ぐいぐいと掌で押すと、呆気ないほど簡単に顔が離れていった。
「びっくりした?」
呆然と見上げるセリスの視線の先で、アーネストは甘く微笑んだ。
身体の強張りが口の動きまで封じてしまったようで、セリスはまわらない舌でなんとか声を絞り出した。
「しました……。何をするのかと」
月明かりの下、アーネストが目を伏せるようにして低い声で言った。
「何って。口づけしたんやけど」
「はい。そうなんですけど、アーネストがこういうことをすると思わなくて」
(ええと? 何を言ってるんだろう、わたし。そうじゃなくて?)
混乱しているせいで、うまく頭が働かない。
艶めくアーネストの微笑や仕草に目を奪われていたが、いまだに腕に捕らわれたまま。
全体的に何か危ない空気だとはわかる。
しかし、相手がアーネストであるだけに、どうしてよいかわからない。どういう反応が正解なのかもわからない。
「誰になら、口づけされるかもって思っとるの?」
「されるかもというか」
言葉そのままに言い返してしまってから、セリスは逃れるように横を向いた。
(アーネストの目が、わたしを見ている……)
逃れられない、絡みつくような視線が頬や唇の上を這う。たまらずに目をきつく閉じる。
囁きはごく近いところで。耳に直接注ぎ込まれるように、もたらされた。
「されたんやね。あいつに」
断罪するかのような響き。