剣鬼の血脈(前編)
野外劇場における小宴が始まり、ほどなくして隊商の主だった者がマズバル兵に呼ばれて出て行った。
すぐに戻るかと思ったが、待ってもその気配はない。
隊商の長であるセキも出て行ったままだ。もしかしたら王宮で王主催の宴が開かれているのかもしれない。とすれば、今晩はもう帰って来ないとみた方が良さそうだ。
そういった、情報の通りが良くない。おそらく意図的に遮断されている。
篝火の側で、少年は炎を見ていた。
細く束ねた黒髪を背に流し、身にまとっているのは簡素な濃紺の装束。上着のフードに銀狐の毛をあしらっている以外に華美な装飾は一切ない。端整であるが、人目をひく華やかさに欠ける顔立ちには、若さに似合わぬ実直そうな厳しさがある。
少年は、ふと横に人が立ったのに気づいた。
ゆっくりと顔を上げる。
「サイード」
少年が名を呼ぶと、相手は片頬に炎の光を浴びながら、声をかけてきた。
「エルドゥス様。食事は?」
よく透る声である。
サイードは、頭髪や顔を覆うような布をすべて取り払い、すっきりとした面差しを露わにしていた。
切れ長の瞳に、高く通った鼻梁、笑みを湛えた薄い唇、ほっそりとした顎。白っぽく見える金髪に、日に灼けていてさえ、白々として大理石の硬質さを思わせる色合いの肌。
広い肩幅、均整の取れた長身で恵まれた体躯でなければ、超然として中性的にも見える顔立ちをしている。
「食事は結構。サイードは、今日の騒ぎで、ずいぶんと判断が早かったと聞いています。何やら、略奪の呼びかけをした者がいたそうですが、叩き伏せたんですか?」
エルドゥスと呼ばれた少年は、にこりともせずに言った。
サイードは指の間に盃の細い持ち手部分をひっかけ、片手でそっと髪をかきあげた。
「愚かしいことです。砂漠の旅は過酷ですが、この仕事を終えればそれなりの報酬は約束されている。目先の餌に血迷うとは」
「旅の目的地がローレンシアではなく、マズバルだと説明を受けている者がいたとしたら?」
「何を、深読みしているのか知りませんが。発端になったのは、途中で欠員補充にいれた子どもだったようです。街に入って、隊から逃げるついでに略奪をし、混乱を起こして逃げ切ろうとしたらしい。隊の不始末ゆえ、マズバル兵にはこちらからも追跡を出すと申し出ましたが、『不慣れな街で迷子になりますよ』ということで、後処理含めマズバルが引き受けるとのころです。そろそろ捕まった頃ではないでしょうか」
さらっと説明をされて、裏を探ろうとしてエルドゥスは早々に諦める。
(この男が、簡単に裏などを見せるはずがない)
サイードはまぶしそうに目を細めて炎を見た。エルドゥスもその視線を追って煌きを放つ篝火を見る。
「あなたが」
夜空に舞い上がる火の粉を追って、視線を上向けながら、エルドゥスは小さく呟いた。
返事はなかったが、聞いているというのは感じる。
もともと、口数は多くないが冷たい男ではないと知っている。
戦場で、その背に憧憬を集める彼は、剣鬼と呼ばれる苛烈な戦士。だが、ただ強いだけではない。
(この男は、見捨てないのだ)
表立って彼のその性質を口にするものはいない。勇猛で鳴らした草原の民として、助けを期待しているようなことは大きな声で言えない。だけど、皆知っている。
彼が身の回りの者に限らず、広く多くの者の名前を憶えていること。どんなに困難な状況であれ、一人ひとりの名を呼び、取り残された者がいれば血路を開いて駆けつけること。
彼によってその命を救われた者が、死ぬのなら彼の為と心に決めていること。
もとをただせば彼は外から来たよそ者。それでもどうしようもなく人をひきつけている。
エルドゥスは炎の輝きを顔に受けて、噛み締めるように言った。
「あなたが、俺の味方であればいいと、何度も思いました」
遠くで、楽の音が聞こえている。
まだ夜ははじまったばかり。市民のための酒場や隊商宿では、オアシス都市の恵みを享受するひとときの宴が繰り広げられているのだろう。
周囲の喧噪もますます騒がしくなる中、決して大きくはないのによく透る彼の声が、耳に届いた。
「味方につける努力はしたのか?」
顔を上げると、穏やかに微笑んだサイードが見ていた。薄い唇が開いて、明るい笑い声がこぼれ出る。
(嫌だ)
嫌だ嫌だ嫌だ。
太陽のアスランディア。
この男は、この明るさで人を惹きつける。どれだけ草原の主に従順な兵士を装っても、いずれその人望は権力から邪魔にされるだろう。
王の輝きを持つ者は、同じ場所に並び立つことができない。まして、配下にするなど。
(俺であれば、邪魔にせずこのひとを使いこなせる。この人が俺の味方だったら、絶対に厚く遇して全幅の信頼を寄せて、背を任せた。斬られて死ぬのも覚悟の上で。そうでなければ、このひとを真の味方にすることはできない)
サイードの笑みを見て、エルドゥスは大きく息を吐いた。
「あなたが、もっとずっと嫌な奴だったら良かった! ただの嫌な奴だったら、何も迷わなかったですよ!!」
仕掛けられるのを待つのは、もう無理だ。
こんなにも、自分はこの相手と戦いたくないと思っている。
いずれ必ずある、兄たちとの跡目争いよりも嫌だ。
サイードは笑いをおさめて、明瞭な声で言った。
「迷わないように。あなたの道を決めるのは、あなただ」
剣を抜いたのは、いずれが先であったか。
ほとんど同時であるとすれば、それはサイードが合わせたのだ。
どちらかが完全な悪者にならぬよう。
睨むエルドゥスに対し、サイードは柔らかな笑みすら浮かべている。
彼我の差の明らかな子どもに、剣の稽古をつけてやると言わんばかりの余裕。
(ここで死ぬわけにはいかない)
エルドゥスには行かなければならない場所があり、待たせているひとがいる。
それでも。
勝ち目の薄いこの戦いを避けて通ることは、どうしてもできなかった。
剣を合わせて、戦って、勝って。今はまだ思い描くも儚い未来を掴まなければ。
覚悟を決めたその時。
周囲で、叫び声が上がった。