汝の敵から目を逸らすなかれ(後編)
「考え、まとまりましたか? 方針がよくわからないので、聞きたいんですけど」
立ち止まって振り返っていたロスタムが、見つめ合うアーネストとセリスに向かって、無造作に尋ねてきた。「ガキ……」とアーネストが何やら陰々滅々とした声で呟きをもらしたが、セリスは救いのように感じてロスタムに対して頷いてみせた。
「ロスタムは、市街の地図が頭に入っているの?」
「はい。マズバルに来るのは初めてですが、オレを育てた人がこの都市に詳しかったので、必要なことは教わっています。迷わないで歩けるくらいには」
そのひとは、ロスタムに「緊急の際の避難場所」として、四阿の場所まで伝えていた。そこには、たまたま師の知人であるエスファンドがいたけれど……。
(ゼファード、月の国。隊商都市のエスファンド。重要人物のことごとくと顔見知りで、連絡をつけるのが可能な人物といえば)
セリスは一度目を閉ざした。視界が黒く染まる。何も見えない中を、手探りで進むようなその暗闇の先に、一人の人物が背を向けて待っている。
紫の太陽。
「ロスタムのお師匠様は、アルス様だね」
確認に、ロスタムはなんでもないことのように首肯する。
緊張に顔を強張らせて、セリスはゆっくりと言った。
「アルス様は、おそらく、とてもお強くて、砂漠の事情に詳しくて……。滅びたアスランディアの人だ。アルザイ様もラムウィンドス様も煙たがっているふりをしているけど、とても信頼している。きっと、ゼファード兄様も。それは子どもの頃の関係に由来してもいるんだとわたしは考えている。これで……これで全員なのかな?」
「全員って、他にも誰か知り合いがおるってこと?」
アーネストに問われて、セリスは眉間に皺を寄せたまま再び瞑目した。リーエンの頭を踏みつぶそうとしたエスファンド。あんなのは、嘘だ。エスファンドはあんなことする人じゃない。目の前で、見せられていてさえ。
信じたくはなかった。
しかし、答えはそこにある。信じたくないものの中に。
エスファンドは、残忍な行為を持って、何かを伝えようとしていた。
「人は、自分の信じたいものを信じます。信じたくないものは、実際に目にしてさえ、簡単には信じない。何か事情があるのではないかと考えてしまう……。そもそも、結論をあらかじめ想定しているからこそ、それに合いそうな証拠を集めて、合致しないものは見なかったふりをしようとすることもある。たぶん、アルザイ様もラムウィンドスも」
口調がどうしても重くなる。
だが、これは「彼らと同じ時間」を共有していない自分だからこそ、気付かなければならないし、やらなければならないことだ。
アルザイもラムウィンドスも、ゼファードも、どこかが甘い。根の深いところで、信じ合っているからこそ、そこに「裏切り」があったときに、気づくのが遅れるようにセリスには思えてならない。
(もしこの都市で争いが起きるのなら、アーネストの剣が必要だと思った。アーネストは強い。だけど……)
目を見開いて、顔を上げたセリスはアーネストを見た。
「わたしは、あなたに、命を懸けてとお願いしなければなりません」
セリスのまっすぐな視線を受けて、アーネストは不敵に笑った。
「今さらやな。ずーっと前からオレのすべては、姫に捧げとる」
そうは言われても、セリスは唇を閉ざしたまま、しばし言葉が出ない。
またもや血が出そうなほどに噛みしめている小さな唇を見ながら、アーネストは「そうやねえ」と気楽な調子で続けた。
「そんなに申し訳のう思ってるっていうなら、ご褒美くらいは要求しようかねえ」
「わたしに用意できるものならなん」
話の途中で、音もなく近寄ってきていたロスタムが不意にセリスの口を手でおさえた。
「お前、何してんのや」「んんん!?」
気色ばんだアーネストをさておき、ロスタムは、焦るセリスに向かって平坦な調子で言う。
「いけませんよ、姫様。この男、きっととんでもないものを要求します。処女とか。処女ですよね?」
アーネストの振り上げたこぶしが空を切り、ロスタムは軽い動作で後ろに飛び退った。
口封じをとかれても、あ然としたままセリスは二の句が継げなくなっていた。
やや離れた位置から、ロスタムがもう一度言った。
「処女なんですよね? って聞きました」
「……き、聞こえなくて、返事をしなかったわけではなくてですねっ」
「姫さま、相手にすんなや。クソガキいい加減に」
剣を抜かないのは、アーネストも理性が振り切れるほど怒っているわけではない……と、セリスには見えるのだが、明らかに拳に力が入っているし、当たったら痛そうだなとは思った。
「あの……。二人とも……、わたしの純潔でそんなに遊ばないでください!」
止めようとして声をかけたのに、振り返ったアーネストの瞳には青い炎が燃え盛っていた。
「もう少し、言葉に気ぃつけてな姫さま」
「……ええと、では正確に言えと。わたしの、そ、その、しょ……」
「わざとかドアホ」
全然よくわからない理由で、早足に引き返してきたアーネストに肩を抱き寄せられて、額に額をぶつけて頭突きされる。
「痛い……」
「思い知ればええわ」
ふん、と憎々し気に言うアーネストに、セリスは額をおさえた涙目で言った。
「言え、みたいな空気だったじゃないですか」
「あのクソガキは許しがたいんやけど、オレもしみったれた空気は苦手やしね。さっさと言って。ああ、姫さまの貞操の話じゃなのうて、その前の」
てきぱきと促されて、逃げたはずのロスタムも戻ってきたところで、セリスはせめて呼吸を整えて言った。
「サイードという太陽王家の生き残りの方が隊商に同行していると聞いて以来ひっかかっていたんですけど……。その話、アルザイ様はまったく知らないようでした。誰かが情報を止めていたとしか考えられない。すぐには信じがたいことですけど、そのことによって利するひとがいる」
エスファンドがリーエンを嬲るなどありえないと思った。実際に目にしていてさえ。
目にしていなければ、きっとこの考えもばかばかしいとすぐに捨て去っただろう。ありえないと。
だけど。
ありえないと切り捨てる前に、よくよく目を見開いて。
見えているものを無いことにしてはいけない。
月と太陽の王家、砂漠の王。幼少時からの関係性や時系列的なことを思えば、アルスとサイードは知り合いだと考えた方が自然だ。
……もし、セリスがサイードの存在を知らないままであったら、アルスに疑いの目を向けることなどなかっただろう。
「もしかしたらアーネストには、アルス様と剣を合わせて頂かなければならないかも、しれません」
自分に剣の腕があれば、他の誰かにこんなことを願わずに済んだのに。
セリスは己の弱すぎる手に呪いを込めて、言った。