四阿にて(前編)
喉を、肚を。
薄皮の下に温かい血液をたっぷりと含んだ柔らかなそこを。
牙を立てて引き裂き、肉を食いちぎり、甘い血を啜ろうと彼らは。
もうずっと前から見ていた。
飢え乾いて欲望にまみれた双眸で。
* * *
衝立の影からセリスが姿を現したとき、アーネストは軽く片目を細めて首を傾げた。
セリスは遠くを見るように焦点の合わぬ瞳で床を見て、壁を見た。気まずさをごまかす仕草だ。
「そっちには誰もおらへんで」
注意をひきつけるように呼びかけられて、セリスは緩慢に首をめぐらし、ようやく声の主であるアーネストを見る。
二人の視線が絡んで、宙で結ばれる。
互いだけをその瞳に映す、ほんの刹那。
「……より困難な道を選ぶのか」
薄く笑ったエスファンドが、目を伏せて低い呟きをもらした。
着替えようとしていたはずのセリスは、最前のまま、まばゆいまでの姫の姿でそこにいた。
逃走の最中に乱れた襟を正し、砂埃を払っている。灯火の届かぬ薄暮の暗がりの中でも、その白々とした立ち姿は目に沁みて、淡く光を放つかのごとき清らかさがあった。
セリスは唇をわななかせ、ようやく声を発した。
「アーネスト。わたしは綺麗ですか」
「オレの理性を試さんといて」
腕を組んだまま、ふっと息を吐き出したアーネストを見上げ、セリスは滲むような微苦笑を浮かべた。泣いているようにも見える、寂しげな笑顔だった。
「隊列が乱れたあの時、わたしは彼らにとって『獲物』でした。わたしが、混乱を引き起こした。わたしを狙って、暴動のような騒ぎが起きました」
黙したまま歩み寄るアーネストの気配に、セリスは目を閉ざす。
唇が震えている。うまく喋られない様子に、アーネストは「何や」と穏やかな声で促した。
俯きがちながらも目を開けて、セリスは再び口を開く。
「『女』であることが恐ろしく思えて、消したいと願っていました。わたしがこんな服装をしていたから『獲物』とみなされた。早く男の姿に戻らなくては。早く着替えねば。『女』であるわたしは消して隠してしまわねば。そうして、逃げて、隠れて……」
手を持ち上げ、肩から腕をぎゅっとおさえて、自らを抱きしめるようにしてセリスは床の一点を見た。そこから、視線を下げたままエスファンドの方へと顔を向けた。
「おそらくそれは違う。逃げても終わらない……逃げきれない。だから、着替えている場合ではないと」
エスファンドは声を立てずに、小さく笑った。
「逃げきれないから、いっそ自分を囮にすることにしたのかい?」
セリスを見つめ、ついで手足を拘束され声を奪われ床に転がされたままのリーエンを見て。
自分の身体を抱きしめたまま、セリスは目を閉ざして俯いた。
「……どれほど欲望をむけられても、わたしはこの身を奪われるわけには。たとえ予言が、信じるに足らないものだとしても……」
アーネストが思わずのように差し伸べていた手、その指先が、セリスの頬に触れる寸前で止まる。止めた位置で拳を握りしめて、ゆっくりとおろす。アーネストの唇は、固く引き結ばれたまま。
顔を上げたセリスの翡翠の瞳は、弱くはあるものの、いつもの輝きをその奥底に取り戻していた。
「もし着替えていたら、先生は黙ってこの混乱の都市から、安全に逃げる方法をわたしに教えてくれたのだと思います。ですが……、より困難な道がひらけているというのなら、わたしが進むべきはその道です。その道の先に、もしかしたら今まで通りの『明日』はないのかもしれませんが。それでも、行きます」
優しすぎるエスファンドの笑みの意味。
セリスのたどり着いた結論に対し、師は静かに肯定した。
「どちらにせよ、きっとこの都市に穏やかな明日はない。ロスタム、行くのかい?」
床に腰を下ろしていたロスタムは、軽い動作で音も無く立ち上がった。
「すぐにでも」
「気を付けて。と、送り出したいところだけど一つ聞いておく。君にもしもの時は四阿へ向かえと、教え導いた君の師は、私の友人だろう。ここに着いてからの指示は受けていたのかい」
「いいえ。オレは師から、ゼファード様の側にいるように言われていたんです。今この場にいるのは母とゼファード様の意志です。あの隊商に潜り込んだのは偶然のようなもので、姫を囮に騒ぎを仕掛けたのは、独断です」
「君は何を見つけたの」
エスファンドの問いに、ロスタムは一瞬目を瞠った。その身から警戒が噴き出したのを見て、エスファンドは「そうだねえ」とのんびりとした口調で言った。
「アルザイ様もラムウィンドスも、決して為政者として不足があるわけではない。ただ、どうしても上品だし、常識にとらわれているところがある。短期間にあれだけ勢力を拡大したアルファティーマに、その常識が通用するとは私にはどうしても思えない……。結論を言おう。あの隊商を迎え入れないという選択肢は、隊商都市にはなかった。だが壁内に入れたのはまずかったと思う。東国からの正規の隊商が、必ずしもマズバルに敵意を持っていないとは限らない。むしろ、彼らは本当に、ローレンシアへの荷を持っているのか?」
一瞬の静寂の後、アーネストがたまりかねたように声を上げた。
「そこから疑うところやの!?」