紫の目の神官が言うには(1)
アスランディア神殿に二人がついてから、日々は静かに何事もなく過ぎていた。表面上は。
アーネストとライアにはそれぞれ別々に部屋が用意されており、食事や身の回りのことにも不便はなかった。
神殿からは、「二人はアルザイからの客人であり、滅多な用事は任せられない」と丁寧に言われた。その上で、指示があるまでは各々神殿内で自由に過ごして欲しい、とのことだった。アーネストは神殿の裏手で腕に覚えのある僧兵相手に剣の鍛錬をし、ライアは出入りを許された書庫で過ごすようにしていた。
しかし、その実まったくもってライアは何をしていても上の空。
(アルザイ様からの客人、だなんて聞いて呆れる。私にだけ、すぐにとんでもない密命をくれたのよ、あの紫の目の男が)
* * *
初日。
ライアが食事も沐浴も済ませて、自室の寝台で横になろうとしていたとき、部屋を訪れた者があった。
警戒しつつドア越しに答えると、届け物に来た神官だという。ドアを開けると、素早く中に入り込んできた男に背後をとられて口をふさがれ、両腕を封じられた。
「騒がないように。話をしにきただけだ」
声は穏やかであったが、状況は異常。気色ばんだライアがなんとか振り返ろうとすると、紫の瞳をした男に背後から顔をのぞきこまれた。
「私はアルスという。会うのは初めてではないよ。わかる?」
(紫……!)
唐突に思い出した光景があった。
ライアの気付きを悟ったのか、アルスは口をふさいでいた手を離した。
「……隊商宿で……、旅の途中に、あなたから話しかけられたことがある。あれはリズだったかしら……。その紫の瞳」
通り過ぎてきたオアシス都市の名前を呟くと「ご名答」とアルスは言って、拘束していた腕も速やかに解放してくれた。
「私はこの神殿所属の神官だが、仕事を請け負って各地を巡っていることの方が多い。先日は、ちょうど旅先からの行程が同じだったので、あなたのことも見ていた。王女の一人旅なんて気になるからね。護衛もついていたけど、あなた自身それなりに刃物は扱えると見た。少し訓練すれば工作員として使えそうだ」
工作員。
言われた意味が、少しの間わからなかった。やがて、仕事を振られているのだ、と理解した。
アーネストが裏の仕事をするかと言われて了承していたのを悔しい思いで見ていたが、何のことは無い、ここに来た時点でライア自身も数に入れられたらしい。
「女性の工作員は不足していたのでちょうど良い。暗殺、諜報、調略……。女性の方が入り込みやすい現場というのもたくさんある。あなたは見た目も良いし、育ちも良いからその気になれば高位の男の気をひくこともできるだろう。枕を共にして情報を手にするのは、女性には必須の手段」
ライアは振り返って、アルスをじっと見た。
「おや。怒らないんだね」
軽く小首を傾げて、アルスが口元に笑みを浮かべる。
ライアは唇を噛みしめてから、意を決して口を開いた。
「所詮、誰かの思惑ひとつで嫁ぎ先が決まる王女なんて、高貴だなんだと言っても求められているのは今あなたが言ったのと同じこと」
声が震えないように気を付けて、ようやくそれだけ言った。
アルスはすっと目を細めた。
「あなたは、『アーネストに暗殺などさせるな』と怒ったと。黒鷲から聞いている」
(私がアルザイ様と交わした会話が、伝わっている……)
つまり、そういう相手なのだと理解した。王宮に目や耳があるのか、アルザイと懇意にしているか、その両方か。
「アーネストには、そういった裏の仕事の話はしているのかしら」
「いや。まだだ。ただし、あなたに工作員の話を持ち掛けて断られたら、全部あの男にふっかけてやるつもりでいる。あの美貌なら、相手が男でも女でも楽に篭絡させられる。美貌が過ぎて少々目立ちすぎるが、ここぞというときには使えるだろう」
(それは、たしかに。ただの女である私よりも、傾国の美貌を持つ青年のほうが、使い所はあるはず。アーネストはあれほどの剣士だというのに、まず求められるのは、そういう)
ライアは、口の端を吊り上げてにこりと笑った。
「断らなくて良かった。それこそ、そんなことアーネストにはさせられない。彼は私の部下でも何でもないもの」
「アーネストの誇りは大切に思うのに、王女である自分の身はどうでもいい?」
(ずいぶんと、遠慮なくずけずけ言う男ね。それでいて腹の底が読めない。探り合うには分が悪すぎる相手だわ)
探り合いは早々に諦めて、ライアは言った。
「『王女である私が女を使うだなんて嫌』と言ったとして、では誰か他に『そういうこと向きの下賤の女』がいるのかしら? 暗殺や諜報の必要性は理解しているわ。無い方が望ましいし、名誉な仕事とは思わないけれど、誰かが担っている仕事よね。現にあなたは、私が断ればアーネストにやらせるだけだと言った」
ふう、と息を吐いてアルスはドアに背を預けた。
恐ろしく気の抜けた態度。自分に戦意も敵意もない、と暗に示しているかのようであった。
ライアと目が合うと、アルスは浮かない調子で告げた。
「古今東西を問わず、人間というのは同じ人間を『ものを言う道具』として扱う制度を持っている。奴隷制という。私は宗教家なので、より豊かな社会、搾取や抑圧のない社会について語ることもあるけれど、この二つは実に両立しがたい。そもそも王や貴族といった上に立っているとされる人間はごく当たり前のように『下賤なるもの』『搾取されるべきもの』を想定して成り立っている……。身分の高い生まれながら、そういう相手に思いやりを持てる人間というのは、実際とても少ないんだよ。私が知る限り」
そこまで言うと、軽く頭を振って両手を開き肩をそびやかした。
「アルザイも、ここらで賢い嫁もらっておけばよかったのに」
聞こえよがしな音量であったが、内容としては独り言のようだったのでライアは返事をせずに黙って聞いていた。
アルスは気を取り直したように顔を上げると、紫の瞳でまっすぐに見て来た。
「王女の覚悟はよくわかった。後は実力のほどを見せてもらおう」
「どのように?」
何か試験があるのだろうか。
ライアが聞き返すと、アルスはふっと人の悪い笑みを浮かべた。明らかに人が悪い。嫌な予感しかしない。
果たして思いを裏切らず、アルスはにやにやとして言った。
「アーネストを篭絡してごらん」
ライアは笑みを浮かべて、「おっしゃる意味がわかりません」と優雅に聞き返した。意地だった。
アルスはその心意気を易々と砕くことを口にした。
「堅気の軍人の一人や二人、簡単に落とせるようじゃなく工作員が務まるわけないよね? 落とすんだよ、あの男を。女で」
アーネストを。
落とす?
混乱を表情に出さないように堪えているライアに、アルスは優美な仕草でお辞儀をしてドアに手をかけた。出て行く前に振り返ると、茶目っ気たっぷりに片目をつむって言った。
「時間は無限にあるわけではない。期待しているよ」
* * *