甘い薔薇(1)
陽が落ちて、そろそろ灯りを点けようかという頃合いだった。
「おーし、お前ら。今日はそこまでだ。続きはまた明日。いや……、最近ろくに休んでねーって話だし、明日は全員休みだな」
戸口に立った男の声に、集まっていた者たちが色めき立つ。
長机の端につき、紙にペンを走らせていたエスファンドだけは、顔も上げぬままさらさらと文字を書き続けていた。息を詰めて皆が見守る中でぴたりとペンを止め、書き終えた分を素早く目で追う。やがて、ふっと息を吐いた。
「なるほど。では解散としよう」
顔を上げ、黒衣の男をまっすぐに見てそう言う。
「大先生、今日はずいぶんと素直だな」
「逆らえば、ここぞとばかりに無理難題がふってくるのは知っている。みすみすアルザイ様を喜ばせても仕方ない」
その一言で、ようやく周囲の者が散らばった書物をまとめたり、ペンを片づけ始める。
戸口に腕をかけてその様を見ていたアルザイは、積み上げた書物を持ち上げようとしているセリスへと目を向けた。覚束ない手つきで、重そうに持ち上げて歩き出そうとしたところで、ひょいっと横から手を出した細身で黒髪の青年に書物の山のすべてを奪われていた。
「リーエン、大丈夫です。僕が持ちます」
焦ったような、澄んだ声が響く。
アルザイは目を細めて、セリスに与えた名を呼んだ。
「マリク。話がある」
呼びかけに、マリク――セリスは慌てて振り返る。
「アルザイ様っ。はい、すぐに片づけます」
「そのまま、隣の奴に任せておけ。その細腕に荷物を持たせて、落とされても。書物は高いんだぞ」
セリスは未練がましく隣に立つ青年に視線を向け、「リーエン、ごめんなさい」と小声で言った。さらさらの長い黒髪を、襟足でひとつに束ねた細面の青年リーエンは、薄く笑みを浮かべた。
「アルザイ様を待たせるなんて、とんでもない。後はやっておくから、早く行って」
「わかりました。どうもありがとうございます」
早口で言って頭を下げてから、セリスは戸口に立つアルザイの元へと駆け寄る。
「お待たせしました」
やりとりを見守っていたアルザイは、目元をほころばせた。
「これから食事にする。付き合え」
「はい」
即座に、返事をする。「何の用があって、一介の文官見習いを」などと、口答えすることなど絶対にできない。わざわざアルザイ自ら呼びつけにきたことで、周囲にいらぬ動揺を与えたとは思うが、あとで考えようとセリスは悩むのをやめた。
さっと身を翻して回廊の先を行くアルザイに、セリスは遅れぬように付き従い、足早に歩き出した。