下
「ちょっと、イタズラが過ぎたわ」彼女が言った。
僕は下を向いたまま黙っていた。
「ねえ、わたしを見て。ね、ほら」
彼女は、なかなか動こうとしない僕のあごを掴んで、無理やり正面を向かせた。そこには、歯がむき出しの血濡れた彼女の顔があった。そんな彼女の顔を見たくない。僕は顔を逸らそうとしたけど、彼女の腕の力が強くて出来なかった。
突然、彼女は「はい、元に戻ります」と言って、指をパチッと鳴らした。
すると、肉の腐った臭いは、きれいさっぱりなくなり、彼女の顔は、傷ひとつない、もとの可愛らしい顔に戻った。唇がちゃんとついている。どこにも血の跡なんかない。
僕は驚いて自分を見た。皮膚は、元の健康的な肌色に戻っている。服は破れていない。腕にも歯形なんてない。ただ顔が涙でくしゃくしゃになっていて、心臓が激しくドキドキしていた。
店員は片づけをしながら、心配そうに僕たちを見ていた。腕はちゃんと付いている。外の人たちは、汗をかきながら、軽快な足取りで歩いていて、窓の外側には、ガラスを拭いている作業員がいた。
僕は何が起きたのか分からず、しばらく呆気に取られていた。
「こ、これは、どうゆうこと?」僕は彼女に聞いた。
「ヒプノーシスよ」
「ヒプノーシス?」
「催眠ね」
「き、君、勝手に、僕に催眠術をかけていたのかい!」
「ええ」
断りもなく僕に催眠をかけ、恐怖のどん底に落とすなんて、どうかしている。僕は彼女を許せないと思った。だけどそれ以上に、ゾンビから生きた人間に戻れたことが嬉しかった。元の世界に戻って来れたのが幸せだった。
「どうして、また」
「だって、あなたゾンビ、好きなんでしょ。恐怖が快感なんでしょ」
「うぐっ、だ、だからって」
「あと、復讐ね」
「復讐?」
「昨日、何の日か覚えてる?」
「えっ、えーと……、何だっけ?」
彼女は僕を睨みつけて、ほっぺをつねった。心地いい痛みだった。
「最低ね。わたしたちが付き合いはじめた記念日でしょ。記念日にはケンカしたくなかったから、我慢していたけど、あなた、わたしが心を込めて作った料理を、まるでファーストフードみたいに食べて。で、そのあと何? なんで、ゾンビ映画を見ないといけないのよ」
僕は、失敗したと思った。記念日は、まったく覚えていなかった。あと、映画は恋愛ものにすれば良かった。僕は素直に謝り、「昨日の埋め合わせをさせてください」と頭を下げた。
すると、彼女は険しかった眉を緩めた。「それから……」と、彼女は頬を桜色に染めて、
「何で、キスだけだったのよ……」と呟いた。
僕は、彼女がとても可愛いと思った。
「じゃあ、これから『肉フェス』行かない?」と彼女は明るく言った。
「肉フェス?」
「いろんな肉料理が食べられる、お祭りよ。たくさんの屋台が集まってるの」
僕は、いつもなら、炎天下の屋外は嫌だな、と思う所だけど、今は違った。活気ある、お祭りに行って、生きていることを実感したかった。
もしかしたら、僕は、本当はゾンビで、人間に戻った夢を見ているのかもしれない。彼女は、ゾンビの僕に催眠をかけているんだ。その可能性もあった。でも、もう、どっちでもいい。確かめようがないなら、幸せな方を信じよう。僕はそう思った。
「よし、おごるよ。行こうか」
「きゃー、やったあ」
彼女は太陽のように笑った。さっきのゾンビの時の顔を思い出したけど、ぜんぜん違う。やっぱり彼女の唇、そして、笑った時の口角は最高だ。
僕らは、肉フェスの会場内を歩いた。そこかしこの屋台から、肉を焼く時の、凄まじい熱気が放たれていた。その熱さが気持ちがいい。美味しそうな香りが漂う。数え切れないほど、たくさんの人が集まっていた。大人も子供もいる。みんな、とても楽しそうだ。
「それにしても、催眠術を使えるなんてね。すごいなぁ」
「でしょ。先生は、まだ実習以外で使っちゃダメって言ってたけど、わたしのクラスメイトも、結構、みんなやってるのよ」
「へえ、そんな簡単なものなのかい?」
「まあ、簡単じゃないけどね。間違って使ったら危ないみたいよ。それより、何、食べたい?」
色んな店が出ていた。ステーキや、焼き肉、ケバブや、ホットドッグもある。どこのメニューもボリューム満点だ。
「うーん、君は何がいい?」
「わたし? わたしは、まずは、ジャーマンソーセージね。熱々で肉汁たっぷりのがいいわ。それからドイツビール。あなたは?」
「ぼく? 僕は……」
暑い日だし、何がいいかなぁ、と僕は悩んだ。不思議と、大好きなカルビを食べたいとは思わなかった。ハンバーガーっていう気分でもない。
僕は考えるのを止めて、彼女の両肩をやさしく引き寄せた。
「そうだね。僕は、君の唇がいいな」
僕は、彼女のやわらかい唇に口づけをした。
そして、大きく口を開け、ガブリと…………