中
「それは、どうゆうこと?」
僕は彼女に聞いた。彼女は沈鬱な表情をして言った。
「昨日の夜ね、家に帰って来た時、あなた、血だらけだったの。目は虚ろで、腕には噛まれた痕があったわ」
僕は「えっ」と思った。
「ま、またぁ、そんなこと言って、ははは……」
と僕は笑おうとしたけど、顔が引きつって、思うように動かなかった。
「わたし、逃げたの。必死に逃げたけど、リビングのソファー上で、あなたに捕まった。あなたは、わたしに覆いかぶさった。そして、わたしの唇を美味しそうに、食べた……」
「あはは、まったく、何、言ってるんだよ……」
「わたしたちはゾンビよ。もう人間じゃない……」
「悪い冗談だ。食べたなんて言って。だって君には、ちゃんと唇があるじゃないか。僕にも、ぜんぜん傷なんかない」
僕はカラカラに乾いた口で、そう言った。彼女は、窓の外に視線を向けた。
「外の人たち、歩き方、変じゃない?」
燦燦と太陽が照りつける暑い日だ。喫茶店の外の並木道には、たくさんの人が歩いている。
「フラフラしてない? ゾンビのように足を引きずってない?」
そう言われると、そんな気がしてきた。
「顔色が悪くない? 目が濁って、皮膚が腐りはじめてない? ほら血が出てる。誰か向こうから、こっちに走って来る……」
僕の目から、ウロコが一枚一枚落ちていくように、見えている景色が少しづつ変わっていった。
突然、ドンッと音をたてて、男が窓ガラスに張りついた。僕は「うわっ」と悲鳴を上げてのけぞった。
男の崩れかけた灰褐色の顔には、死んだ魚のような目と、暗い穴が二つ付いていた。ボロボロに裂けた服には、パキパキに乾いた黒い血がついていた。
僕は彼女を見た。彼女は、鼻から下、口の周辺が大きくえぐり取られ、ぬめっとした赤黒い肉の中に、白い歯がむき出しになっていた。服は血だらけだ。乾きはじめ、艶を失った彼女の瞳は、僕をじいっと見ていた。
「き、き、君は……」
僕は恐ろしくなって、彼女から逃げようとした。
「待って、どこへ行くの? あなたもゾンビなのよ」彼女は立ち上がった。
テーブル脇の大きな鏡に、僕の姿が映った。生気のない血まみれの顔、褐色に染まった破けた半袖、右腕には大きな噛み跡があった。出血は止まっている。脈はない。手を胸に当てると、僕の心臓は動いていなかった。
「ぼ、ぼ、僕は、ゾンビになってたのか」
「やっと、気づいたのね」
昨晩の、彼女の唇の感触の記憶。あれは口づけではなかったのか。僕は、大好きな彼女を、食べてしまったのか。
「だ、だけど、ありえない……」
「ううん、この町の人は、もう、みんなゾンビよ。ほら、あの店員さん、腕がないわ。腐った臭いがしない?」
見ると、片腕のない店員が無表情に歩き回っている。喫茶店内は、うす暗く、そこらじゅうが血で汚れていて、腐臭に満ちていた。テーブルの上のグラスの中身は、アイスコーヒーじゃなかった。黒ずんだ血液と、無数のウジ虫が入っていた。
僕は、気分が悪くなり、内臓が飛び出すほど、何度も何度も吐いた。だけど、いくら吐いても、不快感は消えなかった。
「さ、さっきまで、店も人も、みんな普通だったのに……、一体、なぜ……」僕は声を絞り出した。
「あなた、見たいものだけ、見ていたのよ」
僕は「はっ」と思った。そうか……、映画と一緒だ。同じものを見ても、人によって感じ方は違う。僕は現実を捻じ曲げて見ていたのか。
「だ、だけど、僕には意識がある。君の姿が見えるし、声だって聴こえる。暑さだって感じる。もし、ゾンビなら何も感じないし、何も考えないはずだ」
「そうかしら。ゾンビには感覚と意識がないの? それが正しいとして、あなたに意識はあるの? あると思い込んでいるだけじゃない?」
僕の目の前は、どんどん暗くなっていった。
ゾンビに感覚と意識がないなんて、ゾンビになった人にしか分からないことだ。
僕の心臓は止まっている。だけど、歩き回ることが出来るんなら、生きてる、って考えていいんじゃないか。だって植物状態の人だって、人工心肺をつけた人だって、生きてる、って言えるんだから。死んでいたら延命措置できない。
僕は、よく回らない頭で必死に考えた。
自分が生きている、ゾンビじゃない、って思いたかった。
僕の脳は、肉体的には死んでいると思った。だって、心臓が止まったら、数分で脳も死ぬはずだから。
じゃあ、脳死って、一体なんなんだ? 何で、それが人の死だ、って言えるんだろう。意識がない、あるいは回復する見込みがないからだろうか。
いや、待てよ。僕は思った。
意識って、一体、なんだろう?
今までは、脳の機能の一つとか、コンピューターのプログラムが、計算で出した答えみたいなものだと考えていた。だから、もし意識が、脳の機械的な働きだとしたら、自由意志なんてあるんだろうか、と考えていた時もあった。
だけど、今、僕は脳が死んでいるのに、自分には意識があると思っている。この状況が、どんなものか考えている。
ひょっとして、人間に意識があるのは、魂があるからだろうか。もしそうなら、今、僕には魂がある。魂があるなら僕はゾンビじゃない。魂があって動く死体だ。
いや、ゾンビに魂がないのは映画での設定だった……。
今の僕は、魂のあるゾンビ……。
よく分からなくなってきて、僕は、考えることを停止した。
今まで僕は、そこそこ一生懸命働いて来た。受験もバイオリンの練習も頑張った。それがすべて無駄になったんだ。この暑い夏だと、身体は、すぐに虫が湧いて、どんどん腐っていくと思う。意識を持ったままだ。その感覚に、僕は耐えられそうになかった。死んでいるから、自殺も出来ない。
自然と涙がこぼれてきた。
僕は、椅子に腰掛け、激しく嗚咽して泣いた。自分の人生は、こんな感じで終わってしまうのか……。
いや、もう終わっている。
もう終わってしまったんだ……。
まるで地面が裂け、その暗い割れ目の中に、永遠に落ちていくような感覚だった。
「ねえ、大丈夫?」
彼女が僕の肩に手を置いた。僕は、顔を手で覆って俯いていた。
「ね、大丈夫? 気分はどう? ねえ」
僕は答えたくなかったけど、彼女が、しつこく聞くので、しょうがなく答えた。
「どうって……、最悪さ」
「怖い?」
「ああ……、絶望的にね」
「快感、感じる?」
「快感だって! そんなもの、感じる訳ないじゃないか!」
馬鹿な質問に、僕は苛立ち、声を荒げた。彼女は、すまなそうに、僕の手に自分の手を重ねた。その手は固く、乾いたものだった。そして、静かに「ごめんなさい。謝るわ……」と言った。
僕は、この時、彼女は僕に声をかけたことを謝った、と思っていた。