上
内なる問答をやめた時
世界は崩壊し
非日常が浮上する
まるで自分自身の言葉によって
厳重に守られていたかのように
( カルロス・カスタネダ :『力の話』より )
「ねえ、ゾンビなんて、一体、どこがいいの?」
と彼女が言った。僕らは喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいた。落ち着いたクラシックな雰囲気の店だ。天国のように涼しい。グラスを持つと指に水滴がついて、その度にナプキンで手を拭いた。今日は、うだるような暑さだ。窓の外を見ると、並木道のアスファルトは、まるで地獄の鉄板のように、通行人の靴や自動車のタイヤをジュウジュウと焼いていた。
昨晩、仕事を終えて帰宅すると、彼女が僕の家に来ていた。肉じゃがの匂いがした。来るなんて言ってなかったけど、彼女はサプライズが好きだ。いつも突然が多い。
「ご飯にする? それとも、わたし?」と彼女が聞くので、僕は「じゃあ、食事してから、一緒に映画を見よう」と言った。前から見たかったビデオを借りてあったけど、仕事が忙しくて、なかなか見る暇がなかったんだ。
彼女の手料理、肉じゃがと、ひじき煮、手羽の唐揚げなんかを、パパっと急いで美味しく平らげた。そして二人でリビングへ行って、ゾンビ映画を見た。
ソファーに一緒に座った。彼女は、映画を見ても「キャー」とか何も言わず、ただ黙って僕の横にいた。退屈そうでもなかったけど、楽しそうでもなかった。彼女は、冷たい目をして、僕を見ていたような気がした。
彼女とは数年前、市民オケで出会った。僕はファーストバイオリン、彼女はクラリネット。その頃、僕は、彼女のクラリネットになりたいと思っていた。トゥッティ中は指揮者よりも、彼女の姿ばかり見ていた。彼女は僕の二歳上。一回就職した後、大学に入りなおして、今は心理学の勉強をしていた。
「あれの面白さが分からないなんて、君も、まだまだだね」
僕は、琥珀色の液体に浮かぶ氷を、ストローで回しながら言った。グラスは、カランカランと江戸風鈴のような音をたてた。
「何が、まだまだよ。あんな血だらけの映画。せっかく作った料理の余韻が台無しになったわ」
僕は、彼女の眉間に少し殺気を感じた。テーブルの上の彼女のこぶしが怖かった。だけど、僕は「それは謝るよ」と手を合わせながらも、彼女にゾンビの良さを知って欲しいと思った。また一緒にゾンビ映画を見たいと思った。
僕は、彼女の顔色をうかがって言った。
「ゾンビってのはね、メタファーなんだ。物質文明、ポピュリズム、人間性の喪失と攻撃性の伝染拡大といった現代社会の問題点を風刺しているんだ。そう思わないかい」
「ふぅん、風刺するなら、もっとスマートに上品にやってもらいたいわね。何で、グロい、ホラーなのよ」
「すごく分かりやすいし、楽しいじゃないか」
「楽しくはないわね」と彼女は、あっさり言い切った。
「わたし、思うんだけど、ゾンビじゃなくても、いいんじゃない。他にもサスペンスとか恋愛ものとかで、似たようなテーマの映画、あるでしょ」
彼女は恋愛映画が好きだ。付き合い始めた頃、よくデートで映画館に行って見た。最近はあまり行かない。
「いやいや、ゾンビじゃないと、人間にひそむ暴力性が表現できないじゃないか。暴力性、これは、どんなに偉い人でも、かわいい子供でも、誰でも持ってるものじゃないかな」
「え、私にも、ってこと?」
と彼女は無邪気に言った。無邪気だったけど、彼女の顔を見るのが、ちょっと怖かった。僕はグラスをいじりながら、「可能性としてはね」と答えた。
「そもそも、おかしいわ。あれだけ、たくさんの血を浴びても感染しないのに、何で噛まれるとゾンビになるのよ? 感染症なら血液で、うつるはずでしょ」
彼女が、いい所を突いて来たので、僕は少し嬉しくなった。
「そう、それがメタファーなんだ。たぶん、狂犬病がモチーフになってると思うけど、他人に対する暴力だけでなく、言葉を使った口撃、SNSとかで酷く罵ったりして、ニュースや事件になってるよね。攻撃された人は理性を失い、自分もまた人を攻撃するようになっていく。それが集団で行われるようになるんだ。ゾンビ映画が作られ始めたのは、もう何十年も前だけど、それが表現する社会問題は、どんどん大きく、そして広がっているように思う」
「インターネットのウイルスみたいね」
なるほどね。悪意はウイルスのように伝染する。彼女も上手いことを言うもんだ、と思った。ついでに、彼女が「ウイルス」の「ウ」を言った時の唇が、とてもセクシーだと思った。昨晩、ソファーの上で口づけした時に感じた、あの柔らかさを思い出した。
「確かに、最近の新しい社会問題は、ITの発達によるものだね」
「でもね」と彼女が言った。
「怖い映画のどこがいいのよ。昔はよく一緒に、恋愛映画、見に行ったじゃない。あなたも良かったって言ったわよね」
「良かった」って言ったのは本当だ。だけど本音じゃない。僕は彼女に恋していた。だから調子を合わせた。それは秘密だ。でも、そう遠くないうちにバレる自信があった。
「すごく良かったよ。でも、怖い映画も、いいと思う。ゾンビ、怖かったよね?」
「ええ、怖かったわ」
「だよね。恐怖っていうのは、人間に快感を与えてくれるんだ。ほら、ジェットコースターとか、お化け屋敷とか、みんな好きじゃないか」
彼女が「それはそうね」と答えたので、僕は、しめしめと思った。
「ゾンビの、どこが怖いと思った?」
「うーん、血が出る所と、人間が食べられる所かしら」彼女は、可愛らしく視線を上に向けて答えた。
「違う、違う。君は、見るものが違うんだ」
「見るもの?」
「そう。怖いのは、血とかスプラッターじゃない。ましてや、特定の殺人鬼でもモンスターでもない。ゾンビ映画の怖いのは、誰もがゾンビになる、って所なんだ。自分も、家族も、恋人もゾンビになる。そして群衆で襲ってくる。そこなんだ」
同じ映画を見ていても、見ているものが違ったら、そりゃあ、面白くないかもね、と僕は思った。
「その、怖さが快感なのね」
「そう」
「その快感が好きなの?」
「ああ、大好きさ」
今度また彼女とゾンビ映画を見よう、そして、彼女と楽しさを共有したい。僕は、そう思った。
その時、彼女は、なんだか真剣な顔をして言った。
「ねえ、昨日、何の日だったか覚えている?」
「え? 何の日?」
昨日は平日だ。彼女の誕生日でもない。僕のでもない。何だろうと思った。
「じゃあ、あのね、昨日、何、食べたか覚えてる?」
「え、もちろん。えーと、肉じゃがに、ひじきに……」
「違うの……」
「えっ、昨日は……」
「ううん……、あなたが食べたのは、わたし……」
周囲の音が一瞬にして消え、空気が冷たくなったように感じた。




