第8話:大橋
緩やかに太陽は傾き、フォルティス・グランダムの首都が茜色に染まってゆく。
夜の気配を前に、売れ残りを抱えた露天商はため息と共に商品を片付け、友人と思わず話し込んでしまった主婦は大慌てで家へと帰ろうとしている。
夜天の帳が空を覆うと同時に、ほとんどの街は眠るための準備を始める。種々様々な国や民族、種族を抱える世界ではあるが、こればかりは世界共通だろう。
夜は、魔物の時間。いまだ、その闇を打ち払うに至らぬ人々は、大人しく自らの領地に篭るしかないのだ。
そうして静かに夜の訪れを待つ首都の中を、一陣の風が過ぎ去っていく。
「うぉ!?」
「きゃ!?」
露天の下敷や、ご婦人のスカートを巻き上げながら過ぎ去ってゆく一陣の風は、人々の目にも留まらぬ速さで街道を駆け抜けてゆく。
唖然とする人々の間を駆け抜け、トビィ・ラビットテールはフォルティス・グランダムの首都を覆う城壁で、唯一出入りが可能な大門を目指している。
「いそげ、いそげ……!」
ゲンジの言いつけに従い、必死に大門を目指す。
その道の半ばで、街中に響く大きな鐘の音を聞いた。
「っ! やばい!」
夜の訪れを告げる鐘の音は、同時に大門を閉める合図となる。
フォルティス・グランダムの首都を隙間なく覆う城壁で唯一の出入り口となる大門は、同時に首都を囲う大堀に掛る大橋でもある。大門を閉じると言うのはすなわちこの大橋が上がってしまうと言うこと。大橋には外との出入りを果たすための扉などついていないため、この大橋が完全に上がってしまうと首都の中から出ることは困難となってしまうのだ。
トビィはよりいっそう足に力を込め、一気に速力を上げる。
フォルティス・グランダムを出た瞬間に力尽きたとしても、首都を出なければアイマにすら到達できないのだ。
「ぬぁ!? あぶねぇじゃねぇか!?」
「きゃぁー!?」
「ごめんなさいすいません!!」
瞬く間に駆け抜けるトビィの巻き起こした陣風で、手にしたものを取り落としたり、尻餅をついてしまう者が現れ始める。
トビィは謝罪を口にしながらも、振り返ることなく大門を目指した。
やがて、大門が視認可能なところまで到達すると――すでに、大橋は上がりかけ、大門の向こうの景色は三分の二ほどとなってしまっていた。
「っ!? まってまってまってまって!!!」
さらに速力を増すトビィだが、その前に一人の衛兵が立ち塞がった。
「止まれ小僧! もう夜になる! お前くらいの年の子供が外に出るなど、許されていないぞ!!」
「すいませんわかってます!!」
衛兵の言うとおり、まだ成人と認められていないトビィが夜に出歩くなど言語道断だ。
だが、それに従って大人しく朝を待っていては、ゲンジに何を言われ、そして何をされるかわからない。
「でも行かないといけないんです! ごめんなさい!!」
「なにぃ!? そんな馬鹿な話が聞けるわけ――!」
衛兵は鎧を着たまま身構える。盾も剣も構えておらず、腰を落としてトビィを待ち構える。
トビィの体を捕まえるつもりなのだろう。だがトビィも捕まるわけにはいかない。
「ないだろうが!!」
「ごめんなさい!!」
衛兵がトビィの体を掴もうとする瞬間、その腕の中からトビィの体がするりと抜ける。
いや、というより。地面を斜めに蹴って飛び上がった彼の前に、踏み台のように衛兵が飛び込んだというべきだろう。
滑らかな動作で衛兵の肩を踏んだトビィは、そのまま一気に大橋へと駆け寄っていく。
「な……!? 俺を踏んで!?」
衛兵は腕の中にトビィを捕まえられなかった事に気づき、慌てて振り返る。
すでに半分ほど上がった大橋に向かって、トビィが速度を落とさず駆け寄っているのが確認できた。
「待て小僧!! 大橋は降りん! そのままでは!!」
一度上がり始めた大橋を途中で降ろすことは、城壁に組み込まれたカラクリの関係で不可能だ。
このままではトビィの体が大橋に激突してしまう。あるいはトビィは大橋を駆け上がっていくかもしれないが、途中で力尽きて落下してしまうのがオチだ。
衛兵は慌ててトビィの背中を追って、大橋に向かって駆け寄る。最悪、自身の覚えている回復魔法でトビィを回復させることも考えていた衛兵だが、その不安は杞憂に終わった。
トビィは今も上がり続ける大橋まで到達すると、傾斜がつき続ける大橋を一気に駆け上がってゆく。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!!」
トビィが飛びついても大橋は止まらず、なおも上がり続ける。
だが、それに負けぬよう、足が滑り落ちる前に大橋の上をかけ、さらには両腕も振り回し大橋のかすかな凸凹を手がかり足がかりにする。
そして大橋が三分の二ほど上がったところでその端まで到達し。
「ッああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
悲鳴じみた叫び声を上げながら、大橋の端から一気に大堀を跳び越すように飛び出していった。
並々と水の張った大堀の上を、ゆっくり滞空しながらトビィは首都の外へと飛んでゆく。
やがてその体は自重に従いゆっくりと地面へと向かい、大堀からだいぶ向こう側に落着する。
「っだ、っか、っはぁ!?」
両足をバネに、両腕をクッションに、飛び出した勢いで転がり、衝撃を和らげる。
首都周辺はただの草原であったが、それもトビィの勢いを殺し、受け止める緩衝材となってくれた。
しばらく勢い良く転がっていたトビィは、そのまま大の字に寝転がり荒々しい呼吸を繰り返す。
だが、そうして休んでいたのは僅かな間。落ち続ける日と閉まる大門の音を聞いたトビィは跳ねるように飛び上がり、そのままアイマへ向かって駆け出していった。
……その一連の流れをずっと見守っていた、大門監視小屋勤務の衛兵は、唖然とした表情で元気に駆け出していったトビィを見送った。
そんな彼の元に、先ほどトビィを捕まえ損ねた衛兵がやってきて、息を切らしながら問いかける。
「さ……さっきの小僧は!? 大橋から飛び出したように見えたが、堀の中か!?」
「あー……いや。無事に大堀の向こう側に着地して、今山の方に向かって駆け出していったよ」
「なにぃ!? そんな馬鹿な話があるわけないだろう!?」
「いや、マジだって。ほら」
監視小屋の衛兵は、隣に立つ同僚に望遠鏡を一本手渡し、トビィの駆けて行ったほうを指差す。
「ほら向こう。地平が続いてるから、まだ見えると思うぞ?」
「どういうことだよ……っ!」
慌てて受け取った望遠鏡を伸ばし、指の指された方向を見る衛兵。
すると、もう小さな粒ほどの大きさになってしまっているが、確かに元気に走っているトビィの背中が望遠鏡の中に映し出された。
呆然としている間にその姿も消えてしまい、衛兵は信じられないと言うように呟いた。
「ばかな……。大橋の高さは、その辺りの家屋より高いんだぞ……? 全部じゃないとはいえ、それがほとんど上がった段階で外に向かって飛び出して、無事に着地してさらに走り出すって……」
「それ以前に、上がり続けてる大橋の上を瞬く間に駆け上がるってのもどうかしてるよな。あの傾斜、心臓殺しってレベルじゃないぜ?」
自身の足元で行われた大道芸を思い出し、監視小屋の衛兵は呆れたようなため息を吐く。
「よほど大事な用事があるんかねぇ? 着ている服が、フォルティスカレッジの制服っぽかったから勇者候補だろうし……」
「なに? フォルティス……? そうだったか?」
「目の前遮っててわかんなかったんかよ……」
呆れたように同僚を見つめる監視小屋の衛兵。まあ、豪速で迫る前傾姿勢の少年の着ている服を、あの一瞬で判別しろと言うのが無理な話か。
しかし、フォルティスカレッジの勇者候補と言う言葉に、何か納得を得たらしい男は一つ頷いた。
「そういうことか……。それならば、夜に首都を出て行くのも納得か」
「納得すんの?」
「ああ、当然だ。あの齢でも勇者候補であるならば、命を懸けて為すべき事があるのだろう。何を為すのかは知らないが、ぜひ成し遂げて欲しいものだ」
「それ、道の途中で遮ろうとした奴の言うことかよ」
うんうんと頷き、熱い憧憬の眼差しでトビィの去った方を見つめる同僚の掌回転振りに苦笑しながらも、監視小屋の衛兵は夜の帳に覆われた星空を見上げる。
「まあ、将来有望な候補生がいるのはいいことだよな。あれだけの能力があるんだから、フォルティスカレッジでも有力視されてるだろうし」
「ああ。この国の未来は、まだまだ明るいな」
「あー、そうだな。うん」
「ああ、その通りさ。そもそも、勇者と言うのはだな――」
腕を組み、力強く頷く同僚を見て呆れた笑みを浮かべる監視小屋の衛兵。
その後、勇者マニアな側面の彼の勇者談義に一晩中巻き込まれてしまい、監視小屋の衛兵は辟易する事になるのだが、それはまた別の話である。