第75話:怒髪天を衝く
「っ!」
バルカスの咆哮とともに膨れ上がる魔力を前に、アルス王は傷を抑えながら警戒し、ゲンジとノクターンは素早く前に出て、トビィはニーナ王女に平伏したまま動けない。
「■■■■■■■■―――!!」
もはや人とも思えない咆哮。怨嗟の悲鳴にも聞こえるそれを上げながら、バルカスは天を仰ぐ。
白く白濁した眼球は何も写さず、頭蓋から飛び出しかねないほど前に出ている。
その姿は異形であったが、さらなる変容を遂げ始めていた。
肉の解ける音と爆ぜる音がともに鳴り響き、バルカスの体積が膨れ上がり始める。
唐突な変身を前に、ゲンジが呆れたような声を上げる。
「まさかあそこから変化するのか……!?」
「しかも体積が増えている……。何か摂取したわけでもあるまいに……」
天頂からゆっくりと傾き始めている月すら覆い、見上げるほどに巨大化したバルカス。
怒りのままの変身だからか、巨大なオオカミのような姿に変じた彼は、再び天を仰ぎ咆哮を上げた。
「■■■■■■■■―――!!」
周囲の全てを吹き飛ばすほどの音圧。周辺の家屋の屋根を吹き飛ばす一撃を前に、その場にいた者たちのほとんどがたたらを踏んだ。
「ぶっ!?」
「うぁ!?」
そのまま後方に後ずさるゲンジとノクターン。アルス王も、苦痛を噛み殺しながら耐え、そして平伏したままのトビィに視線をやる。
「……っ! トビィ! 頭を上げよ!」
「で、でも……!」
平伏したまま返事をするトビィに、アルス王は再び一喝を与える。
「馬鹿者! 時と場合があろう! 今は立ち、戦う時ぞ! あの巨悪……バルカスは放っておけば、この国を灰燼に帰す! 怒りのままの変容だ、その力に加減はない! 今お主が立ち上がらねば、あれを止めることができんのだぞ!!」
「うぅ……」
アルス王の言葉に、トビィは呻きながら顔を上げる。
その顔にはありありと申し訳なさが浮かんでおり、ニーナとは視線を合わせようとせずにゆっくりと立ち上がった。
「で、では、行ってまいります……」
「うむ」
「あ、トビィ様!」
バルカスに立ち向かおうとするトビィの背中に、ニーナは急いで声をかけた。
トビィは一瞬びくりと体を震わせ、振り返らないままに答える。
「……な、なんでしょうか?」
「もし……もし、私に負い目があるのであれば、この一件が終わった後、きちんとお話いたしましょう」
ニーナは手を組みながら毅然とした態度でそう告げる。その胸の内で、トビィの無事を願いながら。
「私としても、このままとは参りません。必ず、使命を遂げてください。今は、そのことだけを考えて……」
「――はい、仰せのままに」
深い深呼吸を一つ。トビィは心の平静を取り戻すように息を吐き、そのまま勢いよく飛び上がった。
バルカスに向かって飛んでいく彼を見上げ、不安そうな表情をするニーナの肩を、アルス王は軽く叩いた。
「お父様……」
「大丈夫だ。若くとも、彼はもう立派な勇者なのだからな」
「はい……」
アルス王の言葉に、ニーナは一つ頷く。
二人の会話を聞きながら、音圧から立ち上がったゲンジは軽く頭を振りながらトビィの背中を視線で追いかける。
「トビィが……勇者! 見込みはしたが、ずいぶん段階を飛び越えたものだ……」
「だが、認めんわけにはいくまい? アルス王が認め、なおかつイデアの持ち主であらば、な」
「まあな」
ゲンジは一つため息をつき、拳を握り締めた。
「オフェンスは俺とトビィ。ノクターンは他の者を指揮し、周辺住民の避難を頼む」
「任された。援護は?」
「この巨体だ。ダメージが通るのは戦術級魔術くらいだろう。市街で使えるものがあるか?」
「ないな」
見上げるような巨体となったバルカスを見て、ノクターンは処置なしといった様子で首を振る。
「いずれであれ、市街に被害が出るだろう。……適当に気を引くくらいはできると思うが」
「誘導が必要なら頼む」
ゲンジは短くそう告げ、拳で地面を叩いて一気に飛び上がった。
戦友が戦いに赴くのを見送り、ノクターンはアルス王へと振り返った。
「……アルス王! 被害の拡大が予想されます! 残った騎士と兵たちは、避難のために使わせていただく!」
「わかった。我々も、退去するとしよう」
アルス王が頷くと同時に、彼らの頭上で巨大な打撃音が響き渡った。
「っ!」
その場にいた全員が見上げると、バルカスの振るった腕に向かって、トビィが蹴りを打ち込んでいるところであった。
「―――ッ!?」
だが、質量の差はごまかせない。一瞬の拮抗の後、トビィの体はそのまま大きく弾き飛ばされてしまった。
「トビィ様!?」
「姫! 今は、彼を信じて退去を!」
思わず悲鳴を上げるニーナの手を引き、ノクターンはその場を離れる。
アルス王もその後を追いながら、トビィの飛んで行った方向を睨み、一つ呟いた。
「……頼んだぞ、トビィ君……ゲンジ君……!」
「あのバカ……! 馬鹿正直に、真正面から挑むやつがあるか!?」
すぐそばに家屋の屋根に着地しながら、ゲンジはトビィの飛んで行った方向を睨みつける。
呆れたように頭を振るが、すぐに気を取り直し、屋根の上に立ってなお見上げるほどの巨躯を持つバルカスを睨みつけた。
「まあ、きちんと反応はできていたようだ。受け身くらいはとれているだろう」
あの一瞬。弾き飛ばされた直後。
トビィは飛ばされながらも体勢を立て直そうと、体をひねり反転させていた。少なくとも、相手の一撃に対応する余裕はあったようだ。
飛行距離はともかく、速度と時間はそこそこだった。少なくとも、彼が触手を蹴り砕いた時よりも、軽いものだろう。
トビィの復帰はすぐだろうと当たりをつけ、ゲンジは拳で空を叩く。
「ヌン!!」
そのまま砲弾の勢いで飛び上がるゲンジの姿を、バルカスは瞳だけで追いかけてきた。
その巨体故に全体的な動作は緩慢だが、その速度はけた外れのようだ。
こちらを捉えた、と見えた次の瞬間には、ゲンジの傍にバルカスの掌が迫っていた。
「反応速度も桁外れか……! 化け物め!」
ゲンジは一声叫び、バルカスの掌に拳を叩きこむ。
「フンッ!」
ゲンジの拳がバルカスの掌に触れた瞬間、乾いた何かを叩くような音が響き、バルカスの掌が大きく弾かれる。
攻撃を返されたバルカスはたいして痛くもなさそうな表情だが、攻撃を返したゲンジは苦々しい表情でバルカスの巨体を見つめる。
「えぇい。せめて市街の外であれば……!」
ゲンジのイデア、拳骨隆々はあらゆるものを弾く力を持つ。
その気になれば、バルカスの全身を一撃で弾いて、城下町の外、外壁の向こう側にすら飛ばすことは可能だ。
ただし、その進路上にあるあらゆるものの存在は無視される。建物はもちろん、人や外壁そのものも。
イデアの干渉力あってこその荒業であるが、過程に問題がありすぎる。再び近くの屋根に着地しながら、ゲンジは悔しげにつぶやいた。
「市街の被害を考えると、どうにかして奴の巨体を外に出さねばならんか……! だが、どうやって奴の気を――」
「―――ぁぁぁぁああああ………!!」
思案する間に、トビィが戻ってきたようだ。か細い絶叫を上げながら、屋根の上を飛び跳ね、再びバルカスに向かって飛び掛かっていった。
それを見咎めたゲンジは、彼にも聞こえるよう大声で叫んだ。
「迂闊に飛び込むな、トビィ!! 体躯に勝る相手に正面衝突を仕掛ける馬鹿があるか!!」
「ヒィッ!? すいません、先生!!」
ゲンジの声に反応したトビィは、バルカスの手前あたりの家屋に慌てて着地する。
どうやら正座しているようで、ゲンジの位置からでもだいぶ頭が低い位置に見える。
「やれやれ……ん?」
トビィの行動に嘆息していると、バルカスに違和感を感じたゲンジ。
巨体を見上げ、その違和感の正体を考える。
「………?」
とはいえ、バルカスの巨体に明確な変化があったわけではない。
いつの間にか毛深くなった腕はだらりと下げられ、オオカミのような顔は、どこか明後日の方向を見つめ、じっとして――。
「……っ!」
明後日の方向。ゲンジは急ぎ、バルカスの視線を追う。
変身を遂げたバルカスの視線は、真正面に向いていたはず。ゲンジの姿を追うのも瞳だけだった。
それがいつの間にか、移動していたのだ。そして、その視線の先には――。
「――トビィ!! 跳べっ!!」
「ハイッ!!」
トビィの姿があった。
ゲンジの言葉に従い、トビィは急ぎ跳び上がる。
そして、一瞬遅れてトビィの座っていた屋根にバルカスの掌が叩きつけられた。
「ヒィッ!!??」
「いかん……!」
クッキーか何かのように、あっさりと砕け散る家屋。バルカスの掌の大きさは一軒の破壊にとどまらず、周辺の家屋も何軒か巻き添えにした。
その中にいる住人の安否を確認しようと飛び出しかけるゲンジであるが、潰れた家屋から少し離れた場所で、何名かの騎士がこちらに見えるように手で大きく丸を作っているのを見て、少し安堵した。彼らの傍には、つぶれた家の住人らしい家族が、青白い顔でバルカスを見上げている姿もある。
「避難自体は間に合っていたか……」
だが、安堵も束の間。
跳び上がったトビィを追ってか、バルカスの動きが急速に活性化し始めた。
空中にあるトビィの体を叩き潰そうとしているのか、うなりを上げてその巨腕を振るっている。
「きゃぁぁぁぁ!? ぎゃぁぁぁぁぁ!!」
「情けない悲鳴を上げるな、バカモン!!」
空中で器用にバルカスの腕を躱すトビィを見上げ、怒号を上げるゲンジ。
まあ、城内の支柱よりもはるかに太い化け物の腕が、ろくに身動きも取れない自分に向かって叩きつけられれば、悲鳴も上げるだろうが。
内心、トビィに同情しながらも冷静に分析を行うゲンジ。
「化け物になって正気らしいものを失っても、トビィに対する恨みは抱いているのか……。それが行動の原点となるなら……」
ゲンジは急ぎ、念話でもってノクターンを呼ぶ。
「ノクターン! 聞こえるか!?」
《聞こえているよ。君の肉声もよく通っている。念話を使うなら、声を出す必要はないぞ?》
「ああ、すまんな! これが性分だ!」
トビィがうまく逃げ延び続けることを祈りながら、ゲンジはノクターンに指示を出す。
「バルカスと外壁、その二つを結ぶ最短距離から、全ての住人を避難させるまでどの程度かかる!?」
《うん? ……急ぎ避難をさせたとして……二十、いや十分はいるか? 今、王都中に散らばっていた者たちが集まってきているので、その連中も使えばその程度で――》
「ならば急ぎ避難を頼む! 十分経ったらまたつなぐぞ!」
《え、おい、ゲンジ――》
ゲンジは一方的に念話を切ると、バルカスの気を引くべく、己も中空へと跳び上がっていった。




