第6話:厳罰
その日も、トビィ・ラビットテールにとっては最悪の日であった。
午前中の訓練では、どう考えても勝てるはずのない教官であるゲンジとの模擬戦を行わされた。
これは他の者も同様であったが、トビィはその模擬戦で逃げ回ることしか出来なかった。
戦いに腰が引けていた自身も悪いという自覚はあったが、初撃を回避した際に手持ちの武器を取り落としたあと、それを拾う間もなくゲンジの猛攻に曝されたのは純粋にひどいと思っている。
普通は、一回だけ拾うくらいの余裕をくれてもよさそうなものではないだろうか。逃げるのが得意だと言った自身のせいなのだろうか。だとしたら、口の悪い自身を呪う他ない。
そしてその模擬戦の末、強く腹を打ち据えられてトビィは敗北した。ここまではいい。予定調和だ。
だがその後、ゲンジは総回数六百回の反復横跳びを命じた。単純に六百回積むのではなく、休憩を挟みつつ、百回ずつ回数を増やす形であったため、トビィの思っていた以上のつらさがそこに存在した。
単に六百回数をこなすだけであれば、長距離マラソンをこなすようなものだ。回数に応じて緩急を加え、六百回終わるくらいで体力が尽きるように調整すればよい。つらい山場は一回だけだ。それを超えれば、あとはなだらかに反復横跳びを終えればよい
だが、百、二百、三百と回数を増やす形式の場合、三回山場が訪れる。しかも少しずつ、確実につらさは増していくのだ。さらに四百回追加されていたら、確実にダウンしていただろう。根性を鍛えるという意味では、非常に効果的と言えるだろう。そこに意地があればの話だが。
トビィが反復横跳びを終える頃には時計塔の針は十二時を大きく通り過ぎており、昼食の時間も長くは取れなかった。その分、ダトルにちょっかいをかけられなかったと考えれば、多少はましかもしれない。
その代わりというべきかなんというか。フランの視線がいつもより険しい風にトビィには感じた。
こちらを見る眼差しが、いっそう険を増していたような気がするのだ。
別に彼女の不興を買うようなまねをした覚えはトビィにはない。だが、確実にこちらを睨みつけているのを感じた。
おかげで、午後の座学訓練はほとんど身が入らなかった。なんというか、ことあるごとにフランの座る席から圧を感じてしまったのだ。
せっかく、ゲンジではなく彼の代わりを担当する補佐教官の座学訓練だったというのに、ほとんど気が休まらなかった。ゲンジが務める訓練以外は本当に希少で、トビィにとっては数少ない心休まる時間であったというのに。
きっと気のせいだ、自意識過剰だ……。そう、自分に言い聞かせはしたのだが、フランの視線は確実にこちらを見ていた。座学訓練が終わったあとなど、こちらを睨みつけているフランと目が合ってしまった。
ダトルはフランに睨まれているトビィを見て、ニヤニヤと意地悪く笑いながらも口を出さずにこちらを見ていた。にらみ合いは数秒。声をかけるべきかどうするべきか、トビィが迷っている間にフランは鼻を一つ鳴らして視線を逸らし、足音を鳴らしながら講義室を出て行った。
ダトルもそれを見届けると小さく笑いながら、フランに続く。講義室には、トビィだけが残された。
だが、ここまでなら少し変わった日で済んだ。
本当に最悪なのは、ここからだった。
トビィが講義室をでると、先ほどの座学訓練を担当したのとは別の補佐教官がトビィを呼んだのだ。
「ああ、トビィ君」
「? はい、なんですか?」
「先ほど、ゲンジ先生から、君を執務室に呼んで欲しいといわれてね」
「え」
「訓練が終わったら、すぐ来るようにとのことだ。確かに伝えたよ」
それじゃあ、と補佐教官はひらひらと片手を上げて立ち去っていった。
彼の言葉に、トビィはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、頭を振って気を取り直し、足取りも重くゲンジの待つ執務室へと向かった。
「……なんだろう、執務室に呼び出しだなんて……」
誰にともなく呟くトビィ。ずるずると引きずるように執務室へと足を進めるが、心は全力でそちらに向かうことを拒否していた。
――ゲンジ、というトビィのいるクラスの主任教官は、フォルティスカレッジの中でも特に厳しい訓練を課す事で有名な教官であった。
元々は四回生か五回生を担当する訓練教官で、元々はどこか別の国の騎士団の団長を務めていたと噂されている豪傑だ。だが、何らかの理由で団長職を辞すこととなり、フォルティス・グランダムに招かれ、現在の教官任務に当たっているのだという。
そして、教官であると同時に、彼もこの国に所属する勇者の一人である。現在、フォルティス・グランダムに所属する最高齢勇者であり、国王に許された勇者としての二つ名は“拳骨隆々”。その由来をトビィは知らないが、どんな由来であれ彼にぴったりな名前だと思う。
誰かに手を上げたところを見たわけではないが……体罰を課すなら、きっと彼はこちらの頭に拳骨を叩きつけてくるだろう。
何かにつけて強く握られる拳を思い出し、トビィは体を震わせた。
いつの間にか、執務室に到着している。まごついていては、自分がその拳骨を喰らう第一号になりかねない。
「……トビィ・ラビットテール。ゲンジ教官の召喚に応じました……」
「よし、入れ」
執務室の扉に向かってトビィが召喚に応じたことを告げると、厳格な声色の中年男性の声が中から聞こえてくる。
恐る恐るトビィが扉を開けて中に入ると、所狭しと並べられた執務机、そのうちの一つにゲンジがかけているのが見えた。
こちらの方を見ずに、素早く紙に何か丸やぺけ印を書き加えているらしいゲンジを見て、トビィは一瞬躊躇したが、生唾を飲み込みながら彼の近くへと寄っていった。
そして十分だと思われる距離に立ち、一礼をしてから本題に入る。
「失礼します、教官……。それで、あの……一体、どんな御用でしょうか……?」
「ああ。昨日のテスト。それは覚えているな?」
「あ、はい……。ノクターン教官の、抜き打ちの……ですよね」
「ああ、そうだ」
ゲンジは紙に何かを書き付けるのを止め、トビィに向き直る。
ちらりとトビィがそちらを見ると、ゲンジが何かを書いていた紙は昨日のテストの答案だった。
トビィが何かを察するのと同時に、ゲンジは訥々と語り始める。
「午後の訓練をアル教官に代わってもらったのは、このテストの採点を行っていたためだ。そして、お前を呼び出したのは、このテストの採点が終わったからだ」
採点が終わった。その一言で大体察したトビィは、泣きそうな顔になりながらゲンジに問いかける。
「あ、赤点でしょうか、僕……」
「なに?」
「そ、その……皆に聞いたことがあります……。テストの特に悪い点数のことを、赤点って呼ぶって……」
泣きそうになっているトビィを見て、ゲンジは静かに問いかけた。
「……何故自分がそうだと思う」
「そ、そうでなければ、呼び出される理由が、ないと、思いました……」
すっかりしょげ返るトビィ。
赤点。特に、こうした座学……もっと言えば学問において絶対避けるべき点数だと、周りの候補生たちが話していたのを、今朝方耳にした。
ゲンジであれば、赤点の候補生にきつい罰を課す位はするだろう。そうなったらどうしよう……。
そんな候補生たちの話を聞き、トビィは体を震わせた。
周りの候補生たちですら恐れる赤点。きっと、自分はそれを取ってしまうだろう、と。
「ぼ、僕は……元々田舎の、山の方で育ちました……。他のみんなみたいに、学を修めてここに来たわけじゃないし、こっちでの座学訓練だって、ちっとも頭に入らなくて……」
ポツリポツリと呟くトビィの言葉を、黙って聞くゲンジ。
彼は静かな表情で、トビィを見つめていた。
俯いていたため、ゲンジと目を合わせずにすんでいるトビィは、ポツリと問いかけた。
「た、退学でしょうか……? そ、そうなんですよね……? ぼ、僕は出来の悪い候補生だから……」
「……何寝言を言っている。一回生の内から、いちいち退学者を出していては永遠に勇者など生まれん」
「え、でも……」
ゲンジの言葉に顔を上げるトビィ。
すると、こちらを険しい表情でまっすぐに見つめるゲンジと目が合ってしまう。
その眼力に思わず怯み硬直してしまうトビィ。ゲンジは彼を見つめたまま、しっかりと口を開く。
「トビィ・ラビットテール。お前の来歴は知っている。お前の生まれ育った村には学校のようなものはなく、お前は育ての親の村長の下で、静かに村の手伝いをして生きてきたことも知っている」
「………っ」
「それゆえに、座学訓練に遅れが出ているのも理解している。だが、それがどうしたというのだ」
「え……?」
淡々とした語り口調の中に、僅かな慈愛を感じ、トビィの緊張が解ける。
「俺なんぞ、生まれてこの方まともに筆を握ったこともない。こうして教官として任についてはいるが、座学訓練も基本は歴史や礼節中心だ。魔術師や神官に必要な言学についてはまったくわからん。昨日のテストの結果とて、所詮は現時点でどれだけ覚えているかを確認するだけのもの。赤点がを取った程度で、貴様に対する評価が揺るぐことはない」
「……教官」
真摯な態度で、自身と向き合うゲンジを見て、トビィの肩から力が抜けてゆく。
少なくとも、今のゲンジは自身とまっすぐに向き合い話をしてくれている。
それを感じたトビィはため息を吐きかける。
だが、それを遮るように、ゲンジは彼の鼻先に一枚の答案を突きつけた。
「だがな、トビィ……。よりにもよって、自国の国王の名前のスペルを誤るというのは、一体どういう了見だ……?」
「え」
ゲンジの言葉に、テスト答案の問いを確認する。
一際強いぺけ印を刻まれた、第一問。「フォルティス・グランダムの歴代の国王に受け継がれてきた名前は?」という、きわめて基本的な問題。答えは“Ars・Fortis”である。
トビィ・ラビットテール少年の答えは、“Arc・Fortis”……。極めて単純だが、凄まじく致命的な間違いであった。
自身の回答を検めて確認し、愕然となるトビィに、ゲンジは詰め寄るように低い声を上げる。
「点数自体も赤点だがそれはいい……。だが! 敬愛すべき国王閣下の御名前を覚えておらず、あまつさえ間違えるというのは、仮にもフォルティス・グランダムの一国民、なおかつ勇者候補生として招かれた身の上としてどうなんだ、ええ……!?」
「いや、あの、そのぉ……!!」
自身でも思っても見なかった失敗を前に、完全に涙目になって後ずさるトビィ。
もういい訳すら思いつかず、プルプル震える彼に向かって、ゲンジは引き出しから取り出した何かを投げつける。
「トビィ・ラビットテール!! 貴様に一つ、罰を課す!」
「は、はい! うわっ!?」
ゲンジの投げたものを危うく取り落としそうになりながらもキャッチしたトビィ。
彼に向かって投げられたものは、一通の封筒であった。
「その封筒を、ここ、フォルティス・グランダム首都の野菜供給もとの一つである山村“アイマ”の村長へ届けてこい!」
「は、はい!」
アイマは、フォルティス・グランダムが背負う山脈のうちの一つに存在する山村だ。トビィも、この一ヶ月で何回か罰として御使いに行かされた事がある。
これならばまだ楽な方か……そう楽観していたトビィを、次のゲンジの一言が絶望に叩き込む。
「そして翌朝までに戻って来い! そうすれば赤点の件も含め、今回の件はなかったことにしよう!」
「え、翌朝!? そんな無茶な……!?」
思わず泣き声を上げるトビィ。山村まで、普通に歩いて片道で半日程度は掛る。普通は、向こうで一泊することを前提に向かうべき距離の場所にあるのだ。
だがそれを翌朝までに…、となると。
トビィが慌てて現在時刻を確認すると、四時を過ぎた頃合だ。単純に翌朝七時までに戻ってこなければならないとなると、半日で往復しなければ間に合わない。
さらに外の太陽は、もう地平の向こうに降りかかってしまっている。急がなければ、堀の大橋が上がってしまい、首都を出ることすら叶わない。
自身に与えられた情況を把握し、顔を青くするトビィ。ゲンジはそんな彼を睨みつけ、大声で一喝した。
「さあ、急げ! 間に合わなくなっても知らんぞ!!」
「は、はいぃぃぃぃぃぃ!!!???」
ゲンジは解き放たれた矢のように、執務室を飛び出していった。
一陣の風と表現すべき彼の姿は、あっという間にフォルティスカレッジから消え失せたのであった。