第63話:死者の冒涜
――上のほうから聞こえてきていた振動音が聞こえなくなり、少し経った。
地下牢を揺るがすほどの衝撃が何度も起こっていたようだが、それもなくなり今は静かなものだ。
気絶したままのトビィとともに地下牢の中に残っていたフランは、胸の内から湧き上がってくる不安をごまかすように、膝の上に置いたトビィの頭を軽く撫でた。
「……トビィ君、まだ目が覚めないな……」
あれから、トビィを起こさないように彼の体の具合を確認してみたが、どこかにひどい怪我を負っているということはなかった。
どうやらトビィは、あの戦士――ラウムとの戦いで傷を負わずに勝利を収めることができたらしい。
それが単なる幸運なのか、トビィの秘めた実力なのか……いずれにせよ、もう彼のことを、才能を腐らせている男などとは口が裂けても呼べないだろう。
少なくとも、ラウムとともに異空間かどこかへ消える寸前、彼は剛斧の一撃で吹き飛ばされながらも、己の足でその一撃をいなし、そして果敢にもラウムへと攻めていった。
たった一日の間に何があったのか、フランには想像できなかったが、それでももう彼女の心の中には昨日までのトビィはいなかった。
今、彼女が介抱しているのは勇者としての道を歩み始めた少年、トビィ・ラビットテールだ。
「……何があったのかは知らないけれど……見直したわ、トビィ君」
気絶したまま、己の膝の上で眠り続けるトビィの顔を見て、フランは小さく微笑んだ。
彼女にとって、昨日までの彼は己の才能を腐らせるだけの悪童だった。
フォルティスカレッジのスカウトたちによって目に留まった者たちは、そのほとんどが輝かしい功績を残す実力者として成長してきたと聞いている。
中には勇者になるまで成長し、今もフォルティス・グランダムのため、そしてこの世界のために力を振るい、戦っていると聞く。
招かれ組となるだけで、明るい将来が約束されたようなものなのだ。日々の険しい努力を怠りさえしなければ、であるが。
フランの目には、トビィはその努力を放棄していたように見えていた。
ダトルのいじめにははっきりと対抗せず、ゲンジの訓練においては明確な成果も残せない。いつもうつむき、おどおどと小声で自信なさげにしゃべる彼の姿は、どうしたところで戦いに向く人間の姿ではなかった。
彼を選んだスカウトマンには申し訳ない気がするが、トビィは早々にフォルティスカレッジを去るべきだと、フランはずっと思っていたのだ。
しかし、それは間違いだった。スカウトマンの目は正しく、フランの物の見方が間違えていた。
トビィ・ラビットテールは、正しい力を持つ少年だった。万人のため、勇気を振り絞り、その力を振るうことのできる、正しい心の持ち主だったのだ。
「……主よ。お許しください。表向きの力しか図れず、同胞の価値を、身勝手に定めてしまったこの我が身を」
フランは手を組み、自らが信じる神に向かって祈りと贖罪を捧げる。未熟な身において、他者の価値を見定めるなどと傲慢な行為に走ってしまったことを深く恥じるフランは、そのまま静かに祈りを捧げ続ける。
「……………っ……!」
そんなとき、トビィが目を覚ました。
小さくうめいた彼は、そのままゆっくりと目を開き、己の現状を確認しようとした。
そんな彼に気付いたフランは、瞳を開けて彼の顔に手を添え、そのまま覗き込む。
「トビィ君! 大丈夫!?」
「う、ぁ……? フラン、さん……?」
己の頬を包むやわらかい掌に驚きながら、トビィは己を覗き込むフランの瞳を見つめ返す。
そして、その状態で己の後頭部が柔らかく温かいものの上に乗っていることを自覚し。
「―――――。っ!?」
がばぁっ、と勢いよく体を起こし上げ、その勢いのままフランから距離を取った。
危うくトビィの頭突きを喰らいそうになったフランは大慌てで仰け反りながらも、トビィの体を心配して彼へと駆け寄る。
「だ、大丈夫!? そんなに勢いよく起き上がったりして!」
「だいじょうぶ! だいじょうぶだから……!!」
フランに膝枕をしてもらっていた事実だけで、張り裂けそうなほどに動悸する胸を押さえながら、トビィは深呼吸を繰り返す。
特に異常もなく深呼吸を繰り返すトビィを見て、フランはホッと一息ついて胸を撫で下ろした。
「よかった……。トビィ君、貴方はそこの戦士を倒した後、自分の攻撃の勢いで気絶してそのままだったのよ。覚えてる?」
「え……?」
ほら、とフランが指さす先を見て、トビィは黙り込む。
――己が蹴り砕いたラウムの遺骸。そうするしかなかったとはいえ、人を殺めてしまった事実が、そこに転がっていた。
重い沈黙を纏ったトビィを見て、フランは彼を宥めるようと口を開いた。
「……トビィ君。確かに、殺人は原罪の一つ。人を殺すなど、本来はあってはならない所業です。けれど、そうしなければもっと多くの人が死んでいた。……もちろん、選ぶべきではないわ。けれど、貴方の行いは主もご覧になられている。そうしなければならなかったと、主もきっとおっしゃってくださるわ」
「……うん、ありがとう」
神官の心得もあるフランの言葉に、ぎこちなく頷きながらもトビィは何とか笑って見せる。
人を殺した事実が消えるわけではないが、それでも何となく救われた気分になった。
何とか笑ってくれたトビィを見て、フランも笑顔を返した。
「―――っ!?」
だが、その笑顔がすぐに凍り付いた。
怖気の走る、忌まわしい気配。
清流に汚物を流し込んだ時のような、不快感。
今まで感じた、どんな邪悪な気配よりも悍ましく身勝手な感覚が、一瞬でフランの体を駆け抜けた。
思わず己の体に纏わりついた気配を振り払おうと、自身の体を抱きしめうずくまるフランを見て、トビィは慌てて彼女の体を支えた。
「フランさん!? どうしたの!?」
「な、何か……!? 何かが、この地を……!!」
己の感じた気配の正体を、何とかトビィに伝えようと顔を上げるフラン。
彼女はそのおかげで、はっきりと見ることができた。
――もはや死に体。動くはずもないラウムの体が立ち上がり、トビィを背後から襲おうとしている姿を。
「―――っ! トビィ君!!」
「うわぁっ!?」
反射的にトビィの体を横に突き飛ばし、己もまた後ろに向かって飛びのく。
次の瞬間、振り下ろされたラウムの拳が容赦なく地下牢の床を打ち砕いた。
「づっ!?」
「く……!」
そのまま転げて頭を打ってしまうトビィ。
そんな彼を尻目に見送りながら、フランは後退しつつ、口の中で呪文を唱える。
(先ほどの悍ましい気配から察するに相手の正体は……! これなら、私でも……!)
一気に距離を取り、呪文を完成させる。この手の相手は、自分にとっては家業のようなもの。確実に鎮めることができる。
……そう踏んでいたが、甘かった。
辛うじて背骨がつながっているような状態のラウム。彼は、しばし何かに耐えるように体を震わせていた。
だが、次の瞬間。無音無動作でフランの目の前に現れた。
(っ!? ばかなっ!?)
目と鼻の先に、血と臓物のにおいが香る。
あまりにも唐突すぎる、ラウムの動きにフランは度肝を抜かれ、硬直してしまう。
感情がないどころか、命すらどこかに置いてきた瞳でラウムは固めた拳をフランの頭に叩きつける――。
「アアァァァ!!」
直前。真横からトビィがラウムの体に飛び蹴りを叩きこんでいた。
トビィもまた、ほとんど移動の気配を察しられないほど静かにやってきたが、蹴りの威力は一撃必殺。
べきりと枯れ木の折れるような嫌な音を立てながら吹き飛ばされたラウムの体は、今度こそ上下に分断されてしまった。
靴底にべちゃりと血が張り付いたトビィは、いやそうな顔をしながらラウムを睨みつける。
「そんな体で動くなんて……! これもあなたのイデアの力なのか!?」
彼の問いに答える者はいない。
ラウムは、ちぎれた体を何とか動かし、トビィたちの元へと這い寄ろうとする。トビィは素早くフランの前に立ち、ラウムの行く先を遮った。
そしてフランは中断していた呪文を完成させ、腕を組み、天を仰ぐ。
「主よ、哀れな御霊を救いたまえ――。純なる者に鎮魂をッ!!」
フランを中心に円形の魔法陣が現れ、辺りを神々しい輝きが満たす。
光の洪水に巻き込まれたような眩さに包まれたトビィは、その輝きに目を細めながらもラウムから目を離さずにじっと睨みつけていた。
そして、ラウムの体から光の粒子が離れてゆき、元の死体へと還ってゆくのを目の当たりにした。
フランの魔法が収まった後、動かなくなったラウムを睨みながらトビィは静かにつぶやく。
「……もう、動かない、のか?」
「ええ、間違いなく……。私の使える、最も神聖な浄化魔法で、魂そのものを天に還したから……」
フランは何度か深呼吸を繰り返し、息を整える。
どうやら、先ほどの魔法はかなり強力なものらしく、少し間をおいてもフランの呼吸は少し荒かった。
「スゥー……ハァー……。んんっ。……さっき、死霊魔術の強い気配がしたものだから、もしやと思って……。効いてよかったわ」
「死霊魔術の?」
「ええ……」
フランは先ほどの悍ましい気配の正体を、自身の経験から引きずり出していた。
「さっき、王都の霊脈を通じて、死霊魔術が拡大するのを感じたの……。忘れるはずもないわ。生を冒涜し、死を愚弄する死霊魔術の気配を。間違いないわ」
「霊脈を……? それは、どういう?」
「わからないわ。けど、一つ確かなのは……霊脈のラインが一つ汚されたということ」
フランは険しい表情をしながら、トビィのほうを見る。
「誰が何をしているのかはわからない。けれど、このまま放っておいてよいものではないのは確か。直接魔術をかけていないのに、ただの死体が動き出すほどだもの……。最悪、生者が死者に反転することすらあり得るかもしれないわ……」
「……そんな」
険しい顔でつぶやくトビィ。
フォルティス・グランダム地下牢の中は、重苦しい沈黙に包まれていった。




