第5話:得意なのは逃げること
「は、はい!」
ゲンジの呼びかけに、トビィは慌てて立ち上がり、用意された武器の中から一切れの棒を取り出した。
びくびくと怯えた様子で近づいてきたトビィに、ゲンジはなんとなく問いかけた。
「……何故その武器を選んだ?」
「え、え!?」
ゲンジの問いに怒られたと感じたのか、半分涙目になるトビィ。
ゲンジは努めてそんな彼の態度を無視して、問いを重ねた。
「この一ヶ月の修練は、剣を中心に行っていた。その武器を選んだ理由はなんだ?」
「え、えと、その……」
ゲンジの声の調子から、叱られているのではないのを悟ったトビィは細く息を吐きながら答えた。
「そ、その……似てたんです……」
「似ていた? 何に?」
「その……クワに……」
トビィの答えが聞こえたのか、グラウンド十週を終えたらしいダトルが周りにも聞こえるような大声で笑った。
「クワぁ!? なんだよトビィ! グラウンドでも耕すのかよ!? 冗談きついぜぇー!!」
嘲るような彼の言葉に同調し、周囲の何人かがトビィを馬鹿にするように笑った。
その笑い声を聞き、トビィは俯き体をちぢこませてしまう。
ダトルを中心とした笑い声は次第に周りの者たちに伝播してゆき、何人かがつられて笑い、その周りもくすくすと囁くような笑い声を上げる。
フランはそんな中で眉を怒らせ周りを黙らせようと息を吸い込んだ。
「――ふむ。悪くない選択だな」
「え?」
だが、その場の笑い声を止めたのは、トビィの前に立っていたゲンジであった。
彼はトビィの選択を笑うことなく、言葉を続ける。
「手馴れた道具に良く似た武器を選んだほうが、事故は少ない。さらに棒であれば、剣よりも間合いが広い。槍を持てば、農兵とて三日で騎士を殺せるようになる。戦ったことがないのであれば、その選択肢は正しい」
「あ、ありがとう、ございます……」
ゲンジの言葉に、目を白黒させながら礼を言うトビィ。まさか褒められるとは思っていなかったのだろう。
ゲンジは自身が手に持つ棒で軽く手を叩きながら、トビィを見つめる。
「今後、そうした長物を扱う訓練も行う。……だが、今日は別の訓練だ。まずは一打。打ち込んで来い」
ヒュン、と棒の切っ先をトビィに突きつけるゲンジ。
適当な長さに切り落とされただけの単なる木の棒であるが、それを突きつけられたトビィはまるで真剣が目の前にあるかのような緊張感を覚える。
「―――っ」
ごくり、と思わず生唾を飲み込むトビィ。
「どんな方法でも構わない。俺に片膝を突かせればお前の勝ちだ。さあ、かかってこい」
「う、うぅ……」
ゲンジの言葉に、怖気たように後ずさりしてしまうトビィ。
「ぼ、僕は……その、戦いなんて……」
「だろうが、こうして招かれ、お前もそれを承諾したからこそこうなっている。どんな一撃でも構わん。何か、得意なことはないのか」
さらに一歩後ずさるトビィに、ゲンジが問いかける。
すると、トビィは数瞬迷ってから、はっきりと答えた。
「に……逃げること……」
「ふむ?」
「逃げるの……は、得意です……。その……山の中とか、走ってたから……」
そう呟いて、情けなく笑うトビィ。
そのあまりにも情けない一言に、さすがに周囲の候補生たちは大爆笑であった。
「ハハハハハ!! なんだよおい、逃げることって!!」
「ばかじゃねーのか!? 逃げるだけで敵が許してくれるのかよ!」
「お、おなか痛い……! さすがに冗談よね!?」
爆笑の渦に巻き込まれるグラウンド。ただ一人、苦りきったような表情でトビィを睨み付けるフランを除けば、まあ和やかといえない雰囲気でもない。
トビィも情けない笑みを浮かべたまま周りを見回し、それからゲンジの方を見る。
「ほぅ」
ゲンジは笑っていなかった。
いつも通りの真剣な表情のまま、トビィを怒鳴らず棒を構える。
次の瞬間、ゲンジの一撃がトビィの頭を狙って放たれた。
棍の切っ先が風を切る音が鋭くグラウンドに響き渡る。
瞬き一つ終えたときには、棍を振り切っているゲンジ。その軌跡は、トビィの頭があった辺りを狙っていた。
だが、トビィの姿はどこにもない。唯一、彼が握っていた棒だけがその場にぽとりと落とされていた。
ゲンジは静かに視線を巡らせ、横の方を見やる。
そこには、必死の形相で、転がるようにゲンジの一撃を回避したトビィの姿があった。
ゲンジの凶行を前に、シン、と静まり返るグラウンド。聞こえるのは、荒々しいトビィの呼吸音だけだ。
誰もが口を閉ざす中、ゲンジはゆっくりと良く通る声でトビィに告げた。
「逃げるのも、また選択肢だ。戦うことだけを方法として俺は提示していない。俺とて人間。体力が尽きるまで逃げられては、片膝を突かざるをえない」
「ハッ……! ハァッ……!」
転げたような姿勢を急ぎ正し、立ち上がるトビィ。
ゲンジはそんな彼を見て、棍を構える。
「――自慢ではないが、俺も三日三晩飲まず食わずで戦地を逃げ回る程度の体力はあった。だいぶ衰えてはいるだろうが、追いかけっこならば得意だぞ?」
「ヒッ……!?」
息を呑むトビィ。
彼がなにか抗議の声を上げるより早く、ゲンジは彼へと打ちかかっていった。
「シッ!」
「うわぁぁぁぁ!!??」
唸りを上げて迫る棍の一撃。トビィはそれを跳ぶ様に回避し、何とかゲンジの間合いから逃れようとする。
だがそれをさせまいとゲンジは大きく回りこみ、トビィの退路を塞ぐ。
「いっ!?」
「逃げるにも、腰を入れねばこう追いつかれる! もっと気合を入れんかぁ!!」
更なる連撃を放つゲンジ。トビィは上体を大きく動かし、それを何とか回避するが、今度は突きの動きも入り混じり始める。
「わぁぁぁ!?」
「さあ、どうしたどうした! 逃げ場はどんどんなくなるぞっ!?」
トビィが間合いから離れる余裕を与えず、立て続けに攻め立てるゲンジ。
大人気ないとすら言える彼の攻撃を見て、ダトルはフンと鼻を鳴らしてトビィをあざ笑った。
「ふん。招かれ組様の御手前拝見かと思ったが……やっぱりだな。あいつ、てんで向いてねぇよ」
「招かれた以上、何かを見出されているはずよ。あれは彼の努力不足が原因だわ」
トビィの醜態を見て、フランは苛立たしげに歯軋りをする。
「逃げることが得意だなんて……恥知らずもいいところだわ。敵を前に逃げることを選択するのは、臆病かどうか以前の話だわ」
「おお、怖い怖い……。戒律で逃げるのを禁じられてる神官戦士様は言うこと違うねぇ」
フランはギロリとダトルを睨みつけた。
不用意な一言を放ったダトルはわざとらしく手を上げて降参を示しながら、フランに問いかけた。
「で、あとどれくらい持つと思う? 俺は五分以内だと思う」
「……そのくらいが妥当じゃないかしら」
ゲンジの猛攻を必死の形相でかわし続けるトビィを見てそう判断するダトルとフラン。
そんな彼らの判断を聞いたわけではないが、攻撃を続けているゲンジは冷静な眼差しでトビィの動きを見つめていた。
(……ふむ。これで引っ掛けられない。やはり、動きは悪くない)
緩急の混濁した棍の動きは、さながら嵐の波の様にトビィへと迫る。
だが、トビィはその棍の動きを観てかわしている。
視線の先になく、死角から迫る一撃もギリギリ回避している。
視界だけではなく、聴覚でもゲンジの攻撃を感知しているのだろう。
危機感知能力に優れ、さらに攻撃を回避し続ける反射神経と体力も優れている。
(あとは……)
ゲンジは棍を勢い良く振り回し、切っ先が霞む速度でトビィの足元を払う。
トビィはこれに反応し真上に飛び上がった。
が、トビィは完全に失敗したという表情になった。
何故なら、ゲンジはすでに体を捻り、トビィの腹を強く打ち据える体勢を取っていたからだ。
「―――ッ!?」
物々しい音と共に、弾き飛ばされるトビィ。
そのまま転がりながらグラウンドの土に塗れる彼を見て、ダトルは鼻先で笑った。
「ハッ。五分ももたねぇとは」
「………」
フランはトビィの姿を見て、処置なしと言わんばかりに首を振る。
ゲンジは静かに棍の構えを解くと、トビィを見て静かに呟く。
「……確かに逃げるのは得意だったな」
「げ、げほぅ……」
腹を押さえて咳き込む彼の横を通り過ぎ、模擬戦を行っている場所からいささかはなれた場所に、棒で一本線を引いた。
「だが、根性が足りん。トビィ・ラビットテール。これより、この場所で反復横跳びを百回こなせ。それが終わったら五分休憩し、百回足した数。それが終われば十分休憩ののち、さらに百回。計3セット終えたら、午後の訓練を終わりとする」
「か、は……」
「返事はどうした!!」
「は……はぃ……!」
ゲンジの指示と怒鳴り声を聞いて、トビィは慌てて立ち上がり、ゲンジがグラウンドに引いた線までよろよろと駆け寄る。
まだ痛む腹を押さえながら、トビィは急いで反復横跳びをはじめた。
土煙が立つトビィの反復横とびの勢いを見て、満足そうに頷いたゲンジは模擬戦訓練を行っていた場所まで戻り。
「次の者! 前へ!!」
何事もなかったかのように、次の者を呼び出した。