第55話:王の没落
「シャァァァァァ!!」
鋭い咆哮とともに繰り出された鉤爪の一閃を、アルス王は飛び上がって回避する。
バグズの放った一撃は、アルス王の立っていたバルコニーをまるでクッキーか何かのように粉々に粉砕してしまう。
バルコニーの縁を乗り越え、中庭へと飛び降りるアルス王は、振り返ってバルコニーの惨状を見上げる。
「ふむ。少なくとも、膂力が増しているのは間違いないようだな」
「は……はははは! 試してみたのは初めてだけど、なんだ、僕だってやれるじゃないか!!」
哄笑をあげるバグズ。砕け散ったバルコニーの残骸の上で笑いながら、彼はアルス王を見下ろした。
「子供のまま、体が成長しなくなったせいでラウムに後塵を拝していたけれど、これならやれる! この力なら!」
バグズは叫び、アルス王へ向かって飛翔する。
「もうラウムのやつにでかい顔をさせない! 僕が、あのお方のナンバーワンだぁー!!」
「む」
振り下ろされる拳の先を見切り、アルス王は一歩飛びのく。
バグズの拳は中庭の地面に亀裂を生み、大量の武器が廃棄された穴の中身を少し崩してしまう。
「……なるほど。これは恐ろしい」
「そうだろう! ははは! これが僕の力だ!」
バグズは胸を張る。
そうするたび脇腹に開いた呼吸口がゴシュウと物々しい音を立てて息を吐き出し吸い込む。
「もはや僕は人知を超えた……! ああ、今までどうしてこうしてこなかったんだ!?」
「試そうと考えたことすらなかったのかね?」
「なかったわけじゃないさ! けれど、二の足を踏んでいた……。己の体を変化させるなんて、今までずっと恐ろしくて仕方がなかった!」
しかし、もはやそんな考えはみじんもない。そう、声高に宣言するようにバグズは拳を握り締めた。
「けれど、もう怖くない! いや、恐ろしいという感情が愚かしくて仕方がない! こんなに素晴らしいことだったなんて、思わなかった! これこそ、人間のあるべき姿に違いないんだ!」
狂ったように叫ぶバグズを見て、アルス王は哀れみを覚えたようにつぶやく。
「……力そのものに囚われたか」
「はははは! なんとでも言え! 今の僕には、お前の言葉なんて負け犬の遠吠えにしか聞こえないんだ!!」
バグズは叫びながら一気に詰め寄り、アルス王へと鉤爪を振るう。
「そうら、そらそらそらそらぁ!!」
一流の剣士が放つ斬撃にも劣らぬ鋭さで繰り出される爪撃を、アルス王は長剣一振りで捌いてゆく。
剣の鋼に爪の甲殻が触れるたび、鋭く甲高い金属音が辺りに木霊する。
「はははは! なかなかやるじゃないか! 今の僕の半分程度の力をそこまでいなすなんてさぁ!」
「ほう、これで半分か。なかなか見違えるものだ」
触れれば微塵に砕け散ってしまいそうな猛撃を捌くアルス王。
額に一筋の汗すらかかずに立ち回りながらも、アルス王は淡々とバグズの様子を観察していた。
(膂力に関して、これが半分であるならば、全力では触れることすら敵わんな。かすっただけで刃が折られてしまう)
「そらぁぁぁぁ!!」
掬い上げるような爪撃をのけぞって回避しながら、アルス王は横に向かって転がり込む。
一瞬遅れ、アルス王の心臓があったあたりをバグズの背中から伸びたしっぽらしいものが射貫いていた。
「はははは! よく避けるじゃないか! けれど、余裕がどこまで持つかな!?」
(殺気が濃い故、攻撃はわかりやすいが、先を読めんと回避もおぼつかん速度。これを相手取るのはなかなか骨だな)
嘲笑してくるバグズの言葉は無視して、アルス王は長剣を握り直す。
(数をそろえても、おそらく地力で押し返される。これを相手にするには少数精鋭が吉。なおかつ、自身の力を把握しきれていない今こそが勝機か)
今のバグズを相手に増援を呼ぶのは悪手と判断。数の利を活かすには、バグズの能力が不明に過ぎる。今のところ発揮されているのは身体能力のみであるが、肉体が昆虫であることを考えると、人間にはない力を持っていると考えてよいだろう。先ほどまではなかったはずのしっぽが良い例だ。
身体能力だけをとってみても、鋼の刃が通じない甲殻に、岩石をたやすく打ち砕く筋肉、先読み反射でなければ避けられない反応速度。無策に囲ったとしても、逆に各個撃破して終わる未来しか見えない。
ゆえにアルス王は決意した。己の全能をとして、ここでバグズを仕留めると。
「シャァァァァ!」
「ふっ!」
振り下ろされる鉤爪を、飛んで回避するアルス王。
そのまま距離を取り、指を軽く食いちぎって血を流す。
アルス王の行動を見たバグズは、一瞬複眼の色を変え、慌てたように叫んだ。
「それはさせんぞ! シィィィ!!」
バグズが叫ぶと同時に彼の口にあたる部分の甲殻がパカリと開き、そこから無数の針が飛び出した。
指の血を剣に落とそうとしたアルス王だが、飛来する針を見て慌てて回避行動をとった。
「おおっと!?」
「危ない……! その魔法剣だけは使わせないぞ! その剣だけは危険だ……!」
バグズは叫びながら、油断なく構える。
「僕の甲冑虫の装甲すら切り裂くのでは、この体にだって通じるだろう! 僕を甘く見るな!」
「ふむ。これが効くのであれば、私としてはそれだけが狙い目だな」
アルス王はにやりと笑うとくるりとバグズに背中を向ける。
「では、時間を稼ぐとしよう。追ってきたまえ」
「なに!?」
そのまま一目散に逃げだすアルス王を見て、バグズは一瞬呆けるがすぐに牙をむき出しにしながらその背中を追った。
「逃がすかぁ! その魔法剣、絶対に使わせないぞぉ!」
背中の羽を広げ、高速で羽ばたきながら飛翔するバグズ。
一瞬姿を見失ったものの、すぐにアルス王の背中に追いついた。その手に握られた長剣は、まだ紅く輝いてはいなかった。
「よし! 絶対に逃がさないぞ!」
「む。これは困った」
アルス王は背後から追いかけてくるバグズを見て、全く困った様子もなくそう呟きながら、彼を撒こうとするようにすぐそばの角を曲がる。
「む! まてぇ!」
バグズは叫びながら、アルス王の曲がった先を追いかける。
アルス王にとって城内は庭のようなもの。視察という名目で城の中を冷やかして回った好々爺でもある彼は、目をつぶっていても自身の行く先がどこなのかを把握できる。
だが、バグズは違う。アルス王の行く先が予測できず、彼の背中を負って、彼の移動する通りに進まねばならない。
(背中の羽も、思ってたより動かない……! くそ、このままだとあの爺を見失う!)
自身の筋肉量増加に伴い増えた羽への負担が、さっそく体に悲鳴を上げさせている。
アルス王にばれないよう、必死に羽を使って彼を追いかけるバグズであったが、ついには彼の姿を見失いそうになってしまう。
「く……!?」
自身が曲がるより先に、アルス王の背中がまた曲がるのがかすかに見えた。
バグズは羽で飛ぶことをあきらめ、地面に足をつけ、そこに備わった鉤爪で床をえぐりながら思いっきり廊下を駆け抜ける。
羽で飛ぶよりよほど速い速度でアルス王の背中を追いかけながら、バグズは哄笑をあげた。
「ハハハハ! なんだ、こっちのほうが速いじゃないか! すぐに追いつくぞ、凡王ォォォォ!!」
アルス王の背中が最後に見えた廊下を曲がり、そのまま一直線に駆け抜けるバグズは、その廊下がある部屋で行き止まりになっているのを見つけた。
「む!?」
通路の奥、大きな部屋の入り口となっているそこはどうやら台所のようであった。
開け放された扉の向こうには、鍋やフライパン、竈などの姿が見える。こんな時でなければ、今でも忙しく料理人たちが動き回っていたであろう。
その台所の中から、アルス王が姿を見せた。
その手に、いくつかの包みを抱えて。
「っ!? なんだ、何の小細工だ!?」
「すぐにわかるとも」
アルス王は飄々と言ってのけながら、手にした包みをバグズに向かって投げつけた。
「チッ! こんなもの!」
バグズは飛来した包みをよく確認せず、鉤爪を振るって切り裂いた。
だが、それがいけなかった。パンパンに膨れ上がった包み……小麦粉の袋は、バグズの鉤爪の一閃を受けてまるで爆竹のように破裂した。
「うわっ!?」
一瞬で白く染まる視界に戸惑うバグズ。
思わず足を止めた彼の頭に、再び何か小さなものがぶつけられた。
「ん!? な、なんだ!?」
すでに触覚を失った甲殻では、せいぜい何かが当たった程度のことしかわからない。
だが、鉤爪に付いたてらりと光る液体を見下ろし、バグズは数瞬ののちその正体を悟る。
「こ、これ……! まさか、油……!?」
バグズが驚きの声を上げたその時だ。
白煙の向こうから、再び何かが投げ込まれる。
白い煙幕を通してもよく見える、輝く何か。それが小さな火種ということは、完全に見ずともはっきりと知れた。
――何しろ、火種が煙幕に触れた瞬間、轟音とともに煙が炎を身にまとい、バグズの全身を焼き焦がそうとしたのだから。
「ギ、ギャァァァァァァァ!!??」
自らの全身を襲う炎の群れに、バグズは驚き戸惑いの声を上げ……脇腹を襲う激痛にのたうち回った。
今の彼の脇腹には、呼吸口が開いており……そこから意図せずに全身を嘗め回していた炎を取り込んでしまったのだ。
瞬く間に呼吸器官が熱波に襲われ、体のうちが焼けただれたかのような痛みに襲われる。
そのままのたうち回るバグズであったが、次の瞬間にはそれ以上の痛みを感じることもなくなった。
「鮮血一痛ッ!」
「っ!?」
聞こえた声に気付いた時にはもう遅い。
鋼のような甲殻で守られていた彼の心臓は、真紅に輝く魔剣によって貫かれた。
「ガッ!!??」
「――ふむ。炎で視界が歪めば、程度に考えていたが……思っていた以上に効いたものだな」
感心したように頷きながら、手にした魔剣をバグズから引き抜くアルス王。
踏みつけていた彼の背中から足を退け、長剣に付いたバグズの体液を軽く拭う。
バグズは必死にアルス王を見上げようとするが、すでに力を失っている体は言うことを聞かず、微かに首をかしげるだけで精一杯であった。
「お……ま、え……!!」
「卑怯者のとののしるのであれば、好きにするがよい。所詮、人などそんなものだよ」
淡々と呟くアルス王。冷徹とすらいえる口調であるが、バグズから見ることのできない彼の眼差しには、強い憐憫が込められていた。
「さようならだ、虫の王。人の世を支配するなどと嘯くのであれば、滅ぼされる覚悟もしておくのであったな」
「ちく……しょぅ………!!」
バグズは呪うようなうめき声をあげ、しばしもがいていたが、やがて指先一つすら動かなくなってしまった。
アルス王はバグズの体から命の気配が消え去ったのを確認すると、手にした長剣を握り締め、再び振り上げた。
「……念には念を、だ。首を置いていってもらおう」
そう呟くと、アルス王は長剣を振り下ろす。
当然の話ではあるが、遺体からは悲鳴の一つも上がらなかった。




