第49話:認められし者
「―――つまり、この世界の外は」
「地下牢。そして、その外側に地獄への開廟の調べと同じものを仕掛けてある」
自身の声から感情が失われていくのを感じる。
抑えようもない喪失感を覚えながら呟くトビィに、ラウムはなおも過酷な現実を叩き付ける。
「さらに言えば、地下牢を覆う地獄への開廟の調べは、こちらとは異なり、外部への脱出を防ぐ目的で設置してある。故に、空間の広がりはほとんどないが、空間の遮断は凶悪だ。物理的に出ようとする程度であれば問題ないが、何らかの魔法で外部脱出を目論んだ場合、空間のねじれに巻き込まれ、体がバラバラになるだろう」
ラウムの解説も、ほとんどトビィの耳には入ってこない。
だが、それでも理解は及んでいる。
いずれであれ……ここでいくら時間を稼いでも無意味だということだ。
「……貴方のイデアを、誰かの魔法が通り抜けることは……」
「試したことはないが、不可能だろうな。理不尽を具現化したものがイデアだ。その強制力は、小僧が考えているよりもはるかに凶悪で重い」
呆然となるトビィに、ラウムははっきりと告げた。
「断言しよう。俺がここで生きている限り、外の連中が地下牢を脱出することはありえない。俺のイデアは、俺の意思とは関係なく残り続ける。俺が消えろと念じるか、あるいは俺が死なぬ限りはな」
ラウムは剛斧を振り上げ、一息にトビィへと迫る。
「それを聞き、お前はどうする!?」
「―――」
振り下ろされる剛斧を、トビィは条件反射で避ける。
ほとんど魂の篭らない表情であるが、体はしっかり動いていた。
ラウムはニヤリと笑いながら、再び剛斧を振るう。
「時間はもはや無意味! 貴様の望み通り、俺はいつまでもこの場でお前の時間稼ぎに付き合おうじゃないか!」
「―――」
横薙ぎの一閃を、バックステップで回避するトビィ。
続く袈裟懸けの一撃を微かに屈んで避け、続くラウムの蹴りは受け止め、その衝撃を利用して後方へと回避する。
意識のはいっていない時と比べて、格段に無駄の削ぎ落とされた動きだ。どうやら、トビィは無意識であるほうが実践的な動きが出来るタイプのようだ。
本人の言うとおり、逃げることだけは骨の髄まで染み付いているようだ。攻撃を確実に当てることが出来ず、微かな苛立ちは積もるものの、それ以上の愉悦を覚えながらラウムは剛斧を振り上げる。
「そうする間に世界は滅びるやもしれん! だが安心するがいい! この地獄への開廟の調べの中であれば、魔王復活の影響もあるまい! 我らの戦いの決着がつくまで、何人たりとも干渉させぬとも!!」
ラウムの猛々しい宣言を聞いても、トビィの顔に力は戻らない。どこか遠くの方を呆然と見つめている。
――彼にとって、ここでの時間稼ぎこそが唯一にして最大の方策。自らを勇者と呼んでくれたアルス王に忠義を示し、恩義を返すことが出来る唯一の機会であった。
敵方の最大戦力に違いないラウム。これを封じ込めることが出来れば、アルス王も地下牢に捕らえられた仲間たちも、存分に力を振るい、動き回ることが出来ると信じていた。そのためならば、ラウムと共にここで朽ち果てることさえ厭わないと考えていた。
自身のちっぽけな命一つで、ラウムのような強大な力を持った戦士を打ち倒す……まではいかずとも、少なからず消耗させられるのであれば本望だった。
訓練でも叱責ばかりを貰い、同級生たちからはいじめられ、フォルティス・グランダムへやって来た意義さえ見出せなかったトビィにとって、これ以上臨むべくもない戦果であった。
そのために、覚悟も決めていた。手傷を負わせられずとも、時間を浪費させてみせる。この手足が捥がれたとしても、少しでもラウムに喰らいついてみせよう。長い時間稼ぎの先に待っているのが逃れられぬ死だとしても、構わない。そうして死ぬのであれば、それが自分の運命だったのだ――。
だが、そうした覚悟は無意味だった。ここでどれだけ時間稼ぎをしようとも、地下牢に捕らわれていた仲間たちは、外に出ることは叶わない。
トビィを覆うこの荒野の様に、地下牢もまたラウムの力によって捕らわれてしまっている。その言葉を信じるにたる根拠が提示されたわけではないし、実際にそうであるのを見たわけでもない。だが……ラウムの力の強大さは、いまだに底が知れない。彼の言うとおり、地下牢が不可思議な力で捕らわれていたとしても、不思議ではないだろう。
地下牢の仲間たちを解き放つには、今目の前にいるラウムを倒す以外の方法はない。
「俺は待とうじゃないか! 貴様という戦士がその気になるのを! 安心しろ、苛立ちこそ募るが、その先に待っている戦いの喜びに比べれば、このようなものは雑事にも等しい!」
猛々しく宣言し、ラウムは剛斧をまた振るう。
縦に一閃。横に一閃。トビィの体など、一気呵成に両断できるであろうその剛斧は、羽のような軽やかさでトビィを狙う。
それを反射で回避するトビィ。トビィが避ければ避けるほど、逃げれば逃げるほど、耐えれば耐えるほど……トビィの当初の目論見どおり、時間は過ぎ去ってゆく。
しかし、それだけだ。時間は過ぎる、けれども世界は救えない。時間を稼げば仲間がどうにかしてくれる。そんな甘い考えは、露と消えてしまった。
このままでは、ただ無為に時間だけが過ぎてゆく。だが、果たして自分にこの男が倒せるのだろうか?
――いや、無理だろう。逃げる以外はド素人のトビィが、百戦錬磨のラウムに敵うべくもない。ただ立ち向かっただけでは、返り討ちに合うだけだ。
……それならばいっそ、この命をここで果てさせるべきだろう。
さすればラウムも呆れとともにこの地獄への開廟の調べを解除し、地下牢にいる仲間たちの元へ向かうだろう。自分ひとりが無駄に立ち向かうよりは、地下牢の仲間たちが戦ったほうがまだ勝てる見込みがあるはずだ。
ラウムの剛斧の一撃であれば、痛みも感じず死ねるはず。ならば、その一撃にこの天命を委ねるのが最も正しい選択なのではないか。
……そう思えども、体は勝手に回避する。身に染み付いた逃げ癖は、こんな時でも自分を生かす。
故郷の山、その夜の時に比べてもなお激しい剛斧の乱撃を前に、トビィはゆるりと思考を巡らせる。
「フン! 逃げるのがいっちょ前なのはよいのだがな! 貴様の本分はそうではあるまい!? その身に宿った我欲は、その程度では収まるまい!? このラウムに向かい、それを解き放ってみせろ! 貴様の全霊を、見せてみろ!!」
猛々しく咆えるラウム。彼の目は爛々と輝き、トビィの逃げ足に並々ならぬ期待を寄せていることが窺える。
何故、彼はそこまで期待してくれるのか。トビィは釈然とせぬまま考える。
自分にイデアなどあるはずもない。ただ得意なのは逃げ足だけだ。その逃げ足を見て、ラウムが自信を一流と勘違いしているのであれば、それを正してやらねばならぬのではないか?
だが、同時にアルス王の姿も脳裏に浮かぶ。自身を見て、朗らかに笑いながら名を呼んでくれるアルス王の姿。
―ありがとう、トビィ・ラビットテール……幼き勇者よ―
自らを、勇者と呼んでくれたアルス王。彼への忠義を果たすのではなかったのか? そのために、自分はなけなしの勇気を奮い立たせたはずだった。
だが、その方法がわからない。もはや時間稼ぎでは、フォルティス・グランダムの、ひいてはアルス王のお役には立てない。
「ハハハッ! そういえば貴様、素人であったか!? ならば難しく考えることはない! ただぶつかってくるがよい! 貴様の全力、この俺に向かってたたきつけることだけを考えろ!!」
叫びながらラウムは自身の胸板をドンと叩いてみせる。攻撃するよりは、むしろ攻撃をさせたいと言わんばかりにラウムは咆える。
「せっかくのその力、滅びの中で腐らせるのはもったいなかろう!? ならば使うべきだ! 方法など問わぬ! 相手も選ぶ必要はない! 今、貴様の目の前には、その力を受け止めても死なぬ戦士がおるのだからなぁ!!」
叫び、両手を広げるラウム。
トビィは、彼の姿に一瞬、アルス王の姿を重ねた。
「―――」
姿や声、あるいは思想言動が似ているのか? いいや、そんなことはない。アルス王とラウム。この二人がそっくりなどということは決してありえない。見た目は当然、声も、思想も。あらゆるものが違いすぎる。
だが、一点だけ。似ているもの……いや、重なっている部分はあった。
それは……トビィを認めているという点。アルス王とラウム、両者がトビィに見出している者はまったく異なるものであったが……それでも、トビィを認め、彼を真っ直ぐ見据えているという一点において、二人は一緒であった。
「さあ、小僧!! ぶつけてこい!! お前の我欲をぉ!!」
どこまでも真っ直ぐに、自身を見つめてくるラウム。
一体、この戦士が自身のどこを見つめているのかはわからない。
だが、トビィはそれに答えねばならぬと感じた。
アルス王に忠義を返したい……そう感じたように。自身を認めてくれた、この戦士に。
その真っ直ぐな意思に、何とかして答えたい――。
「………ッ!!」
トビィの瞳に光が宿る。強い、意思の光。
一番始め、地下牢で相対した時にトビィの瞳の中に感じた輝きが復活したのを知ったラウムは、その顔に満面の笑みを浮かべ――。
次の瞬間、響き渡った轟音に、呆けたような表情を作る。
「……なに?」
トビィの姿が掻き消え、土煙を尾のように引きながら、ラウムとは反対側に駆け出していったからだ。
呆然としたのは一瞬、トビィが逃げたのかと考えたラウムは呆れたような表情で呼び鈴の準備をする。
いくら逃げても無駄だということ、その身にしっかり刻まねばなるまいか――。
だが、ラウムの懸念はすぐに晴れる。トビィの上げる土煙が、はるか遠くで一瞬止まり、瞬き一つと同時にこちらに向かって突き進み始めたのだ。
「――ははぁ、なるほど?」
トビィの考えを見抜き、ラウムは凶悪な笑みを浮かべる。
トビィの反転。それは、距離を稼ぐためのものだったのだろう。助走の距離を。
ラウムの考えるとおりであるならば、トビィのイデアは走れば走るほどに力を増す自己強化タイプのイデア。彼自身、それをしっかりと把握して行動しているのかどうかはわからないが、それでも助走距離を稼ぐというのは理に叶った行動だ。
果たして、トビィはラウムに向かって全力疾走していた。彼の体に向かって、一目散に。
「―――ククッ」
ラウムは笑い、剛斧を構える。
深く腰を落とし、突き進んでくるトビィを迎え撃つために力を込める。
トビィの姿が見えてきた。従前な加速を得た彼の姿は、さながら霞のようで――。
「―――!!」
二人の姿が交叉するまで、瞬き一つの時間もなかった。
稲光のような速度。先ほど、ラウムの開廟の調べを走りだけで追い抜いた彼の速度は、もはや人間では捉えることの出来ない領域であった。
ラウムが、その手の剛斧を振るうことが出来たのは、ひとえに長年の戦いで培ってきた経験であった。
「シィィィィィ!!」
勘働きだけで剛斧を振るうラウム。
無言のままで突き出されたトビィの蹴りを、その剛斧は迎え撃ち――。
次の瞬間、轟いたのは迅雷の咆哮。
眩い閃光とともに、二人の戦士の一撃は、無尽の荒野を打ち砕いてしまった。




