第37話:虫の王
――バグズ・リディウムの人生とは、地獄そのものであった。
重篤な疫病に冒された村落で生まれた彼に安寧はなく、いつ疫病に冒され死に至るかという恐怖との戦いがそこにはあった。
老若男女の区別なく、人とあればその身を冒すその疫病は、じわりじわりとバグズの村を冒していった。
疫病に冒されたものは、血の涙を流し、全身を襲う形容しがたい激痛にのた打ち回る。だが、冒されたものはまだ幸福だ。血の涙を流し始めればたった一時間の痛みに耐えれば、後は何も感じなくなるのだ。
奇怪な事に、この疫病に発症する者は村落に必ず一人だけ。誰かが激痛にのた打ち回っている間は、誰も発症しなかった。さながら、悪魔に選ばれ連れて行かれるかのようなこの病気は「デモンズ・ギフト」と村では呼ばれた。
疫病の存在を認知したバグズの故郷の国は、その村落を隔離した。当然の処置だろう。こんなわけのわからない病気が国中に広がってしまえば、国民たちは疑心暗鬼に陥ってしまう。疫病を持った者のそばにいれば、必ず感染してしまう。そうなれば、次に命がなくなるのは自分かもしれないのだ。
実際、バグズの村も深い疑心暗鬼に陥ってしまっていた。村人同士の交流などほとんどなく、蓄えの食料を分かち合うことなどせず、虎視眈々と他の村人の食料を狙うような有様。誰かが疫病に冒され死亡すれば、そのものが持っていた食料を奪い合った。
いつ死亡するかわからない極限状態の中、日に日に村人は自らが流した血涙の中へと沈んでゆき、生きてゆくための食料も減っていった。
幼いバグズを養っていた母親も、やがてその疫病に倒れ、血を吐きながら死んでしまった。
その当時、ほとんど食料を食べられていなかったバグズは動くこともままならず、母が死ぬのをただ見ていることしか出来なかった。
そうなれば後は蹂躙されるだけだろう。幼心にそれを理解していたバグズであったが、不思議と村の中は静かであった。――彼は知る良しもなかったが、そのとき村の中で生きていたのはバグズだけだったのだ。
ろくに腹を満たせず指一つ動けなかったバグズ。彼の目の前で物言わぬ死肉の固まりと化した母であるが、どこからかやって来た蝿と蛆たちによって、その体は少しずつ貪られていった。
腐臭漂う中、母の骸が虫たちによって少しずつ削り食われる様を見て、バグズは思った。
――羨ましいな、と。
疫病により、ろくな食料も手に入らない有様となった村の中では、満腹になるまで飯を食べるということすらままならなかった。
まだ幼く、体の小さなバグズですら、パンの一欠けらがごちそうだったのだ。
だが、目の前で母の死骸という大きな食料を得た虫たちは、その成長のために腹いっぱいに死肉を貪っている。
バグズが食べたことがないくらい、たくさん。
純粋に羨ましかった。満足なご飯にありつけなかった自分と比べ、なんと恵まれた環境だろう。取るに足らないはずの蝿や蛆の方がよほど恵まれた食生活をしているなんて。
羨ましかった。彼らは母の死骸を食すことで、明日も生き延びることが出来るのだろう。それどころか、毎日腹いっぱいに食べることでもっと大きくなれるのだろう。
それに比べて自分はどうだ。手足は痩せこけ、骨と皮ばかりとなってしまっているというのに、腹ばかりは無駄に大きく膨れ上がってしまった。
母は死に、死臭ばかりが漂う村の中。バグズは母の骸が虫たちによって貪られる様を、じっと見つめていた。
ああ、羨ましい。と。
「――おや」
そんな彼の耳に聞こえてきたのは、果たして救い主の声だったのだろうか。
「奇怪な―――を抱えているな、小僧。骸漁りに来て、これは僥倖。……どれ、その―――を叶えてやろうじゃないか」
どこからか現れたその声の主は、虫のたかる母の死骸を踏み潰し、バグズの顔に大きな掌を被せてきた。
「―――。――――」
遠くから聞こえてくるのは、魔法の呪文だろうか。
不思議な旋律が鳴り響いてしばらく。
掌がバグズの顔から払われた時……彼の世界は変わっていた。
「――あ、う……?」
「ふむ。――は、成功だな?」
満足そうに頷いた、深くローブを被った魔導師――バルカスは、バグズへと手を差し伸べる。
「立つがいい。バグズ・リディウム。我が手、我が王の御業により、お前は生まれ変わったのだ」
「バグ、ズ……」
ろくに名も呼ばれなかった本名は霧散し……疫病の村で生まれた孤独な虫の王、バグズ・リディウムは、ゆっくりと伸ばされた手を掴んだのであった。
「………そう。僕は、生まれ変わった。あの、地獄から。主の手によって」
無数の羽虫を操りつつ、バグズは城内を徘徊していた。
バルカスの命である、玉座からの逃亡者を探しながら、バグズは口の中から無数の羽虫を吐き出す。
「コォー……。……くそ、回復が遅い。いつもなら、とっくに戦闘用虫の十匹分は回復しているはずなのに……」
悔しげに呻きながら、生み出したばかりの羽虫を、城内へと放つバグズ。
彼の脳内には、羽虫の見た映像がそのまま流れてくる。
一度に流れてくる大量の映像を捌きながら、バグズはゆっくりと城内を歩き、中庭でのラウムの言葉を思い返していた。
「侍虫の主も無敵じゃない……か。確かに、そうだな」
軽く口元を拭い、バグズは悔しさに拳を握った。
「ほとんど力が戻らない……。王都の全てをカバーするように、虫を生み出したとはいえ、この程度を余裕でこなせないようでは、主のお役に立つことなど……」
バグズの持つイデア、侍虫の主。体内で虫を生成することが出来るという、きわめて特異な性質を持つイデアである。
無から有を生み出すイデアというものは、決して珍しいものではない。火や水は当然として、場合によっては武器を生成することができる者すら存在していたといわれている。
だが、バグズのイデアはその中であっても希少な“生命”を生み出すことが出来るイデアである。イデアによって生み出された虫たちは、バグズの元を離れたとしても消滅せず、独自の生態系すら形成することができる。こうした持ち主の元すら離れて活動が可能な性質を持つイデアはきわめて希少であり、そういった意味ではバグズは唯一無二の能力を持っていると言える。
だが、この力には弱点がある。いや、弱点と言えるかどうかは微妙であるが……上限が存在する。
虫の種類や大きさにもよるが、人を殺傷しうる大型の昆虫であればおおよそ三千匹前後。これが、バグズが一度に生み出し、統制が可能な虫の最大上限数となる。
これを超えると、バグズの能力の許容範囲を上回ってしまうため、虫を生むことは叶わず、例え生み出せてもバグズが操ることは出来ない。
「ワーム三匹が死んで、その分余裕が生まれたと思ったんだけれど……見込みが甘かった。追加で産んだ、魔光蝶が存外、消費が重かったな」
バグズは脳内の映像を切り替え、城内の監視を怠らぬようにしながら、恨めしげに呟く。
彼は脳と虫とをリンクさせる事によって、情報を収集することができる。バグズが操れる虫の視界は全て確認することが出来、それが同時にバグズ自身が操れるかどうかの指標になっている。
城内の確認を一度終えたバグズは、今度は王都中に散らばらせている虫たちの視界を片っ端から確認し始める。
王都上空を監視している虫だけではなく、魔光蝶や王都をこっそり徘徊させているゲジゲジや、ラウムを監視させている支配寄生虫も、全てだ。こうすることで、今現在、王都内で生み出した虫たちの制御権がまだバグズにあるのかを確認しておかねばならない。
普段であれば、虫を殺すかその制御を手放してしばし待っていれば力が戻り、新しい虫を生み出せるようになる。
それができないとなると、バグズ自身が想像できないほどに消耗しているということだ。
こうなると、現在王都内に存在する虫たちの制御がバグズの手の中にあるかどうかが若干怪しくなってくる。ただでさえ、侵入者の子ども――トビィの出現という不測の事態が起きているのだ。これ以上、主たるバルカスの計画が崩れてしまう要素を見過ごすわけにはいかない。
監視用の虫はともかく、魔光蝶は魔王復活に必要な魔力を増幅させるために必要不可欠な存在。これの制御だけは手放すわけには行かない。
「………良し、大丈夫だな」
だが、バグズの不安は杞憂に終わった。
王都内に存在する全ての虫……監視用から魔光蝶、そして支配寄生虫に至るまで、全ての支配権が自身の手の中にあることを無事に確認したのだ。
であれば、一先ずはこれ以上虫を生み出すことさえ控えれば、虫たちの支配権が勝手になくなることはないはず。
「戦力増強できないのは口惜しいが……老人と子供一人。今の僕でもどうにでもなるはずだ」
バグズはそう呟き、城内の捜索を再開する。
そう。どうにでもなるはずだ。
あの地獄のような村から、主に救い上げられた日から、自身は生まれ変わったのだ。
醜く脆く弱い人間から……強い虫たちの王へと。
この身に宿った力さえあれば、主と共にどこまでも高みへと上り詰めることが出来る。
どこまでも生きて、生きて、生き抜いて……その果てにあるものを、主と共に掴むのだ。
「―――よし」
主の計画が成就する瞬間を夢想し、嬉しそうに笑うバグズ。
そんな彼の脳裏に、警告が走る。
「ッ!」
城内に解き放っていた羽虫たち。その一群が、一掃された。
場所は中庭から通じる、兵士たちのための詰め所。下手人は不明だが、今この城でこちらに敵対する人間はそうはいない。
「見つけたぞ……!」
アルス王の出現を確信し、バグズは自身の体に寄生させている虫の羽を広げた。
そして、一目散に窓から外へと飛び出し、アルス王の下を目指した。




