第25話:刹那の攻防
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
トビィの悲鳴が上がると同時に、彼の顔の真上を剛斧が通り過ぎ去ってゆく。
屋根の上を走っていたトビィは、自身に叩きつけられそうになった一撃を仰け反ってよけることには成功したが、その勢いで屋根の上から落脱してしまう。
「あ、あぁぁぁぁぁ!?」
自身の体を捕らえた重力に悲鳴を上げながらも、トビィは王都住宅街の壁を蹴り、何とか落下の勢いをコントロールする。長く感じた落下時間も、実際は瞬き一つ程度だろうか。あっという間に地面に到達したトビィは、勢い余って地面に激突する。
屋根の上でその様子を観察しながら、ラウムは興味深そうな笑みを浮かべる。
「ほぅ……? あの勢いで落下して、骨の一つも折らんとは」
ラウムの見ている先では、鼻の頭を擦りながらも、何とか起き上がろうとしている。五体のいずれかを傷めた様子はない。
ラウムは笑いながら、地面に向かって手に持つ剛斧を投げ下ろす。
唸りを上げ、空を切りながら、剛斧は地面に叩きつけられトビィのいる辺り諸共辺りを大きく揺らした。
「ヒッ!?」
トビィは思わずといった様子で飛び上がり、慌てて剛斧の落下地点へと振り返る。
地面に斧が落ちたと思った次の瞬間には、ラウムはその柄に手をかけており、勢い良く地面の中から剛斧の刃を抜き払った。
その刃幅はトビィの身長並みであり、彼を縦に割るには十分な破壊力があることであろう。
黒々と鈍く輝くその剛斧を、驚く事に片手で振り回しながらラウムは豪快な笑い声を上げる。
「ハッハッハッハッ! いいぞ、小僧! 悪くない動きだ!」
まるで小枝かなにかのように手の中で剛斧を弄びながら、ラウムはトビィへと歩み寄る。
「貴様、相当足腰が鍛えられているな? いいことだ! 何事も、地に足が突いていなければなぁ!」
「―――っ!」
腰を抜かしかけながらも、トビィは何とか体勢を立て直し、四つんばいのような姿勢から一気に屋根の上へと飛び上がる。
そしてそのままラウムの姿を置いて去ろうと両足に力を入れ、屋根を蹴る。
一気に飛び跳ねたトビィは、そのまま次の屋根を蹴るべく足に力を込めようとする。
だが、次の瞬間、着地地点にラウムの姿が現れる。
音もなく、前触れもない。まるでその場に初めからいたかのような泰然さで、ラウムはトビィを見上げていた。
「っ!?」
「思い切りも悪くない。俺に立ち向かうくらいの気概は欲しいところだがなぁ」
ニヤリと笑いながら、ラウムは軽く剛斧を肩から持ち上げる。
トビィとラウムの視線が一瞬交差する。
「――ッ!」
「ハッハァ!」
喜色の咆哮と共に放たれた斬撃により、トビィの体が大きく跳ね飛ばされる。
甲高い金属音が、その一撃の重さを語る。だが、ラウムはその手ごたえの軽さにより笑みを深める。
「あの一瞬で、刃を蹴り得るか!」
放たれ、己に向かう刃に向かい、トビィはその一撃を避けようとするどころか、逆に足を踏み入れた。
己の体を両断しようとする刃……その側面。ただの鋼である部分を踏み、ラウムの振りの勢いを利用し、その場の離脱を図ったのだ。
そのまま空中で何回転かしながら、トビィはラウムから離れた屋根の飢えに着地する。
「はっ……! はっ……! はっ……!」
突如立ち位置の変わったラウムの姿を、恐ろしげに見ながら生唾を飲み込んだ。
(さっきもそうだった……! 移動していないはずなのに、移動していた……! 一体なんで!?)
震える体を叱咤しながら、何とか両足で立ち上がり、トビィは逃げ道を探す。
(何とか、逃げて……! 逃げて、先生のところへ行かないと……!!)
今のトビィにとって、頼れる存在は勇者の一人でもある、ゲンジただ一人。
多くの英傑もこの国にはいるが、今はほとんどが出払ってしまっている。一番頼りになる、こうした不測の事態に対処できそうな人物の心当たりが、彼以外にはいなかった。
何より、ラウムの能力に対抗する手段が、まったく思い浮かばない。こんな、不明な能力者の相手が出来る者など、それこそ勇者たるゲンジだけだろう。
(この事態……状況であれば、先生は、王城……かな……)
素早く左右を見回すトビィ。路地の中にはスケルトン。空に浮かぶのは大量の巨大昆虫。
このような事態において、最終防衛ラインとして設定されそうなのは、やはりフォルティス城を置いて他にはあるまい。
逃げるのであればそこになる。普段であれば、城壁からでも三十分以内に到達する自信が、トビィにはあった。
だが、今目の前に立つラウムから逃げつつとなると……。
(……ど、どうしよう。どうすれば……?)
どうしても、逃げ切れるビジョンが思い浮かばない。
何しろ、移動の理屈がまったくわからないのだ。
獣であれば四肢で駆ける。鳥であれば、羽で空を飛ぶ。魚であれば尾ひれで泳ぐ。人であれば、足で歩く。
森羅万象に通ずる全ての生き物は、大地を移動するのに己の体を使うのが当たり前だ。そうでなければならないように、この世界の創造主は生き物を作っておられる。
だが、この男は違う。まったく体を動かさないまま、自由闊達に大地を移動してみせている。移動の軌跡を見破るのはおろか、移動した瞬間を察することすら出来ていない。奴が現れて、はじめて移動したことがわかるのだ。一体、どのような方法で移動しているのだろうか。
あまりにも不自然で、理不尽。恐らくその気になれば、こうして立っている今この瞬間にも、こちらの首をはねることが出来るだろう。
「クックックッ……。長考が過ぎるなら、こちらから行くぞ……?」
そして今、恐らく奴は遊んでいる。笑みを浮かべ、ゆっくりと見せ付けるように屋根の上を歩いているのが、何よりの証左だ。あんな移動が出来るなら、こちらに姿を見せて歩く必要などない。いつでも殺せる……そう、言外につぶやいているのが聞こえるようだ。
(どう、やってかわす? あの斧の一撃を……次は、どうやって避ける?)
獣であれば木の上に。鳥であれば、木々の隙間に。魚であれば、そもそも水に入らずに。
逃げるための必勝法は、その移動経路を逃走経路によって封じることだ。どれだけ大きな力を持っていようとも、トビィの元まで移動できなければその力を発揮する機会など永遠にやってこない。故に、トビィはどのような悪路も走れるように努力してきたつもりだ。
だが、ラウムは、そもそも道を必要としない。故に、トビィがこの世界に存在するというだけで、彼を殺すに足りうるのだ。
ガチャリ、とラウムの鎧の音が一際大きく聞こえる。
悩み惑っている間に、ラウムとトビィの距離は確実に近づいている。
ラウムの邪悪な笑みをより近くに感じたトビィは、ぞっとするような悪寒を感じ、とにかく動くことを決意する。
(こ、このままじゃ確実に殺される! とにかく……!)
トビィは膝を曲げ、足に力を入れ、一気に屋根を蹴って前進する。
(とにかく、逃げる!)
「ほぅ!」
トビィの体が、弾丸かなにかのように己に向かってくるのを見て、ラウムは嬉しそうな笑みを浮かべる。
腹を決めたかそれともやけか。いずれにせよ、ラウムは楽しそうに笑いながら、剛斧を握りしめる。
「天晴れな勇気じゃないか! そういう向こう見ずは……」
二人の距離が詰まるまで、瞬き一つの間も要らず。
「嫌いじゃァないぞぉ!!」
ラウムの斧の速度は、それよりもはるかに速い。
溶けた飴かなにかのような軌跡を描き、一瞬で暴威を振るうラウムの剛斧。
――しかし、その一撃はトビィには届かない。
ラウムが斧を振るった瞬間に聞いたのは、己の肩で鳴る小さな靴音。
「ッ!」
視線だけで背後を追ったラウム。
彼の視界には、大きな跳躍を行い、王都の空へと飛び上がるトビィの姿があった。
(―――まさか)
剛斧を振るい終わるまでの一瞬の間。加速した思考が驚愕の答えを導き出す。
(こちらの斬撃が放たれる前に、跳んだ? 俺の肩を踏み、その背後へと?)
迎え撃ったつもりが、とうの昔に越えられていた。
見逃したつもりはなかった。捕らえきったはずだった。
だが、事実としてトビィの姿は己の背後にある。
いかな奇術か、あるいは実力か。
どちらにせよ……いや、どちらでもいい。
「―――!!」
いよいよ持って、その相好が凶悪に崩れるのを感じながら、ラウムはトビィへと振り返る。
やつが、どれだけ己の一撃を掻い潜りえるのか、それを見定めるために。
だが、その笑みも長くは持たなかった。
トビィの体に向かって、無数の剣が降り注いだのだ。
「っ!」
「うわぁぁぁぁ!?」
飛来した剣は狙い違わずトビィへと襲い掛かる。
空中にいて満足な回避が取れないトビィは、腕を盾にし、何とか剣の直撃を回避するが、刃のいくつかで体を裂かれる。
そのまま真っ逆さまに一戸の家屋の屋根へと落ちるトビィ。
彼を追撃するように刃は無数に降り注ぎ、そのまま屋根ごとトビィの体を貫いた。
ラウムはその様子を無言で見つめ、屋根の破砕音と共にトビィの姿が消えるのと同時に顔を上げる。
「………ポルタァ。お前、邪魔するんじゃねぇよ」
「なにが?」
不機嫌そうなラウムを見て、ポルタは不思議そうに小首を傾げた。
「バルカスは、殺せって。言ってたよ?」
「殺すにしても、やり方や楽しみかたってもんがあるだろうが……。こんな、その辺りに蟻を潰すみてぇなやり方で殺しちまっちゃ、つまらねぇだろうが……」
「?」
ブツブツと文句を垂れるラウムであったが、ポルタには彼の不満が伝わらない。
小首を傾げたまま、ポルタはゆらりと大穴の空いた屋根へと降り立つ。
「……よく分からないけど、これでおしまい。死体を確認して、バルカスのところにかえろ?」
「情緒も風情もねぇ。これだから子どもだの女だのってのはよぉ……」
ポルタの向かいに立ち、ラウムも穴の開いた屋根を覗き込む。
木屑が煙のように立ち上り、視界がいまいち不明瞭であったが少しずつ、下の様子が窺えるようになってきた。
そうしてラウムが目を凝らした瞬間、悲鳴じみた子どもの絶叫が木霊した。




