第9話:夜の闇の中で
太陽は姿を消し、天頂に月が昇り始めている。
辺りを照らす輝きはなく、広い草原やアイマへと続く山道に人の姿は消えうせていた。
だが、その中で動く影が存在しないと言うわけではない。
夜は、魔物の時間。人の気配が消えうせたのを感じてか、のっそりと影の中に身を伏せていた魔物たちが姿を現し、夜の街道や草原、山間に姿を闊歩し始めた。
この世界において魔物とは、人間に敵意や害意を持つ存在の総称として扱われる。特定の種族や、あるいは魔王が生み出したとされる存在のみを指す言葉ではない。
何故このような区分が存在するのかは諸説あるが、「魔王のように人に仇為すモノ」を魔王の同類、あるいは信奉者として魔物と呼び習わすようになったとするのが現在の俗説となっている。
定義としては、基本的に夜行性であり、1.種族の特徴として、人と遭遇すると積極的に襲い掛かってくる、2.一定範囲のテリトリーを持ち、人がその範囲に侵入した場合、積極的に襲ってくる、のいずれかを満たした場合、魔物として判断される。基本的には種族や群単位でそう呼ばれるものであり、特定の個体がそのような特徴を持っていたとしても、他の個体にその特徴が見られない場合は魔物としては認定されない。
割合、定義としては曖昧であるため、熊や狼など時と場合によって行動が異なるものは、時期によって魔物と呼ばれたり獣と呼ばれたりもする。一時期は魔獣という区分も提唱されたが、分類がややっこしいと言うことで定着はしなかった。
今、トビィが駆け抜けているアイマへと続く山道も、そうした魔物、あるいは獣が多く跋扈する地域である。
「―――!」
ある程度、整備がなされた山道は、緩やかな傾斜でフォルティス・グランダムと結ばれている。フォルティス・グランダムの首都から見て背中側に存在するため、首都から一直線とはいかないが、それでも迷うような道ではない。
だが、それも昼の間の話。夜になってしまうと、首都からアイマまで一直線とは行かなくなってしまう。
何故ならば、フォルティス・グランダムの首都とアイマとを結ぶ山道には、夜行性の狼や熊などが餌を求めて徘徊を始めるからだ。
―ゥォーン……―
―グルル……―
腹をすかせた熊が、餌を求めて木の根元や枝葉をあさり、遠くでは狼が遠吠えを繰り返している。
まだ春先となるこの時期においては、どちらも魔物として判定されている動物であった。
冬眠を終えた熊は常に腹をすかせており、繁殖を控えている狼は次代の子の為の栄養を求めている。
さすがに人里まで降りてくることはないが、人の姿や匂いを確認したら積極的に襲ってくる。その身体能力は言うに及ばず、徒人はもちろん、武装した兵士とて単独で襲われては命がないと言われている。
そして、一匹の熊が山道を駆け上がってくるトビィの姿を確認した。
熊は唸り声を上げながら躊躇なく山道の真ん中に出て、能天気に駆け上がってくる獲物を待ち構える。
トビィもまた、山道の中心に立ち塞がる熊の姿を確認する。
すでに成体の大きさだ。冬眠が明けたばかりなのか、やせ細っているように見えるが、その膂力はトビィもよく知っている。地域にもよるが木を一撃でなぎ倒す個体も存在するのが熊だ。
接敵まで、十メートル前後。時間にして、数秒。
考える間もなく、トビィは熊の傍まで接近していった。
そうして一気に近づいてきた間抜けな獲物の胴体を、一噛みで食い千切ろうとした。
だが、そうはならない。トビィはフォルティス・グランダムの首都を出たときの要領で熊の牙を掻い潜り、その頭を踏み台にそのまま山道を駆け上がっていく。
だが、今度の相手は熊だ。獲物を逃したことを悟った熊は、一瞬で激昂し、咆哮を上げながらトビィの背中を追いかける。
冬眠明け直後でやせ細っているとはいえ、そのたくましい四肢は人をはるかに上回る速度を熊に与え、一気にトビィの背中へと接近させる。
背後に迫る魔物の威圧感を察したトビィは、即座にまっすぐ進むことを放棄。
「――っ!!」
一瞬の判断で再び飛び上がり、そのまま木の上へと逃れた。
あと少しで獲物の首筋に噛み付ける距離まで迫った熊は、悔しそうに唸りながら即座にトビィの飛び上がった木の根元まで駆け寄る。
熊は木に登ることも得意としている。そのまま木を上り、トビィのはらわたを貪ろうとしているのだ。
だが、トビィもただ大人しく待っているわけもない。熊が接近してくるのを確認することもなく、そのまま前方にある別の木へと飛び移った。
さらに足を止めることなく次の木へ。さらにまた次の木へと、熊の追跡を撒くように一気に木を飛び移っていった。
さすがの熊も、樹上に残るトビィの匂いの痕跡を追いかけることは出来ない。悔しそうに唸り、目の前の木をへし折って獲物を逃してしまった憂さを晴らす熊。
トビィは熊の咆哮が聞こえなくなるまで、必死に樹上を飛び移ってゆく。
だが、トビィの進行を遮るように一頭の鳥が彼の頭に迫った。
「!?」
山間の木々の隙間も物ともしない巧みな飛行で飛び回るそれは、ナイトバードと呼ばれる魔物。
音もなく迫ったそれの一撃を、トビィは辛うじて回避する。
薄い鉄板程度は一撃で射抜くとされるくちばしが彼の額を掠り、浅く傷をつける。
赤い血液が額から一筋垂れるのを感じながら、トビィはそのまま地面へと落下する。
熊の接近はない。一先ずその事に安堵しながら、彼は空中で体を捻り、危なげなく地面に着地する。
だが、額からこぼれた血は次の襲撃者を招いてしまう。
―グルル……!―
「っ!」
低い唸り声。慌ててトビィが周囲を見回すと、そこかしこに狼の気配があった。
狼は群で行動する動物。出産を控えた時期ゆえ、人であろうと狩りの対象に吹くも獰猛さを持つ魔物の一種だ。
感じる気配は三。木々の間の草むらに身を潜め、こちらに飛び掛るタイミングを窺っているのだろう。
トビィは額の血を拭き、その場を離脱するタイミングを図る。
飛び掛りの一撃を喰らうと、そのまま群がられて、体のあらゆる部位を食い千切られて終わってしまう。だが、アイマの山道の狼は待ちの狩りを行うタイプ。初撃さえ外せれば、逃げるチャンスはある。
トビィの立つ山道に、いやな沈黙が舞い降りる。
互いの隙を窺い合う、ひどく殺気だった瞬間。
心臓は早鐘のようになり、額に玉のような汗が浮かぶと言うのに、背筋に感じるのは寒気さだけだ。
「―――」
周囲に隠れている狼の気配から逃れようと、トビィは摺り足で僅かに動く。
瞬間、一番近くにいたらしい狼が声もあげずにトビィへと飛び掛った。
「っ!」
喉笛に迫る牙の気配を察し、トビィは上半身を捻ってそれをかわす。
トビィの回避を確認したかのように、二匹目の狼もトビィに圧し掛かるように跳んだ。
トビィは片足を跳ね上げるようにして体を傾がせ、それをかわす。
そうして致命的に無防備となったトビィの体へ、本命の三匹目が飛び掛った。
最初の二匹と比べても、一回り以上大きな狼。トビィの喉どころか、頭すら飲み込みかねない狼が、トビィの頭に牙をかけるように体を伸ばす。
だが、次の瞬間。トビィの頭がそこから消えうせる。
彼は三匹目の奇襲を予想していたかのように……体を跳ね上げた勢いのまま地面に倒れこんだのだ。
当然、そのまま倒れていたのでは、着地した三匹の狼に囲まれて一巻の終わり。倒れる瞬間、トビィは足と手をスタートダッシュを決めるかのように構えていた。
そして地面に四肢が突いた瞬間、爆ぜるうような勢いで山道を駆け上がっていった。
狼たちが鼻面をトビィのほうへと向けたときには、彼の姿は山の上のほうへと駆け上がってしまっていた。
惜しそうにくぅんと鳴いて、狼たちは元の位置へと戻っていった。
……そうして山道で襲い来る危難から逃げ回りながら、トビィは一滴の涙をこぼしていた。
(……何をやってるんだろう、僕)
勇者になれる素質があると。フォルティスカレッジの人に言われて。
村の皆は大喜びで自分を送り出してくれて。
自分も、その期待に少しは応えたくて。始めてみる首都に希望を膨らませた。
だが、今自分は危険な山の中を必死に駆け抜けている。襲い掛かってくる魔物から、死に物狂いで逃げ回りながら。
フォルティスカレッジでの生活も筆舌に尽くしがたい。身に覚えのない因縁を付けてくる同級生たち。自分にだけ、特に厳しく接してくるような気がしてくる鬼の担当教官。
日々の訓練の忙しさから、憧れていた首都を散策するような余裕もない。いつの間にか財布の中から減っているお金のせいで、懐的な余裕もない。
気づけばこんなところにのこのこやって来た自分を呪い、部屋にジッと閉じこもっているような日々を送ってしまっている。
去年までは、こうではなかった。
春になれば、畑に種をまく日々だ。腰が悪くなった村の皆に代わって、一日かけて頑張って種をまき続けた。
夏になると、水撒きも盛況となる。村にある井戸だけでは追いつかず、遠くにある川に水を汲みにいくのは、もっぱらトビィの仕事だった。
秋は収穫の時期だ。商人たちが来る前に、畑の収穫物を収穫するために、トビィは汗だくになりながら村中を駆け回ったものだ。
冬は農作業もない、休みの時期だ。だが、雪が降れば、雪をかくのはトビィの仕事。老人の多い村では彼が数少ない働き手なのだ。
つらくはあった。苦しい時もあった。だが、充実していた。トビィは村での生活が隙だった。今の生活とは、比較にもならないほど、幸せだった。
(なんで、ぼく……!)
喉元まで込みあがった恨み言を、トビィは必死に飲み下す。
代わりにこみ上げてきた涙はそのままに、トビィは必死に足を動かした。
自身が今、科せられた重責を終わらせるために、必死になって山道を駆け上がっていった。
そうして、幾多の魔物たちの襲撃から辛くも逃れたトビィは、なんとか山間の村の一つであるアイマに到着した。
時計がないので時間は分からないが、月はもう天頂から傾き始めている。相当遅い時間なのは確かだろう。
辺りを見回しても、村のほとんどの家は明かりを落とし、就寝してしまっているようだ。
「当たり、前かぁ………」
息を荒げながらも、トビィは村の中へと入り、唯一明かりの付いている家へと向かう。
例え明かりがなくとも、魔物は人間のテリトリーまで積極的にやってくることはない。
軒下でもいいから一晩借りて、翌朝早くに村を発とう。
そう考え、唯一窓から明かりののぞく家……村長宅の扉をノックした。
「はーい?」
するとすぐに返事が返ってきて、若干の間を置き村長夫人が扉から顔を覗かせた。
すでに老齢と呼んで差し支えない、しわくちゃな老婆は驚いたように目を見開いてトビィの姿を見つめた。
「まあまあ……。王国の勇者様の御一人! こんな夜分に、どういたしました」
「いえ、僕は勇者じゃ……」
もう何度になるかわからない否定をしつつ、トビィはゲンジから預かった手紙を差し出した。
「これ、王国からの手紙です。いつもの配達で……今日は、火急のようだったので……」
「まあ、そうだったの。いつも、ご苦労様」
村長夫人は柔和な笑みを浮かべ、トビィから手紙を受け取る。
一先ず用件を終わらせたトビィは安堵の息をつきつつ、申し訳なさそうに夫人に問いかけた。
「それで、あの……。もうこんな時間で申し訳ないんですけれど、一晩宿をお借りしても……その、軒下で十分なので……」
「まあまあ! 当たり前じゃないですか! こんな遅くに、王国の勇者様をお帰しするなんて、出来ませんとも!」
村長夫人は顔を綻ばせ、トビィの手を掴むと遠慮なしに家の中へと引き込んだ。
「さあ、どうぞ勇者様! 今、スープの残りを温めて差し上げますからね!」
「え!? いや、そんなおかまいなく!? 朝日が昇ったらすぐに、すぐに帰りますし……!」
トビィは夫人の好意に戸惑い、遠慮しようとするが、彼女はお構いなしにテーブルにトビィをつかせる。
「あの、ホントに、お構いなく……!?」
「さあ、すぐにスープをお持ちしますからね!」
「なんだ騒々しい。一体誰が来たんだ」
夫人とトビィの騒ぎに顔を覗かせた、村長は厳しい表情を驚きのものへと変える。
「ん? あんた、勇者見習いさんじゃないか」
「ど、どうも……」
「ああ、あなた! 王国からの御手紙よ! 読んでおいて頂戴ね!」
「ん? おう」
「私はスープを温めてくるから、勇者様の御相手も、お願いね!」
夫人は手紙を押し付け、強引にそう言い切るとそそくさと台所へと向かっていった。
村長は夫人の様子に呆れながらも、トビィの対面に座ってゲンジからの手紙を読み始める。
「……あ、あの、村長さん? 僕、スープいただいたら、そのまま……」
「泊まっていけ。こんな夜分に、子どもが外を出歩くもんじゃねぇよ」
気に入らない様子で手紙を読みつつ、村長はそう言い切る。
「教官だの何だのに、なんか言われてるかも知れんが気にするな」
「で、でも……あの、ご迷惑――」
「今外に出て行かれるほうが迷惑だ」
「う」
村長の迫力に押し黙ってしまうトビィ。
尊重はその沈黙を肯定と捕らえたのか、そのまま手紙を読みふけり始める。
トビィはそのままあーともうーともつかない声を上げていたが、色々迷っている内にスープを温め終えた村長夫人が現れる。
「さあ、どうぞ勇者様! まだたくさんあるから、たんとおあがり!」
「え、えと」
「腹減っただろ。遠慮せず食え」
村長と夫人に言われ、トビィはおずおずと、木のスプーンでスープを掬って口をつける。
しっかり温められたスープは、空っぽの胃袋に染み渡るほど、おいしかった。