〜プロローグ〜
ランドセルの中から出てきたのは教科書ではなく大量のレゴブロックだった。
これは僕が6歳の頃、小学校に入学して二日目くらいの出来事だった気がする。その日の授業をどうやって乗り切ったのかは覚えていないが、まだ汚れていないピカピカのランドセルからはおよそ不釣り合いなレゴブロックの、色と、ジャラジャラと学習机を叩いた音だけは今でも鮮明に覚えている。今からちょうど、20年も前の話だ。
「忙」という漢字は、よく出来ている、と思う。
心を亡くすと書いて、忙しい。なるほどな、と思う。今僕は大学時代の友達と劇団を結成し、知人を介して知り合った女性とお笑いコンビを結成し、これまた知人を介して知り合った男性とラジオ番組を放送している。
いつかはこの経験を活かして、より上のステージに立ちたいとは考えているが、まだまだ「自称役者」「自称芸人」の「自称」という冠は取れそうに無い。もちろんギャラなんて発生しないため、ステーキ屋で週6でアルバイトをして生計を立てている。最早、こっちがメインになっているといっても過言ではない。
俺は肉を焼く為に生きてるんじゃない!という思いを抱きつつも、それをしなければ生活は成り立たない。でもバイトに時間を充て過ぎて、たまに入るエキストラの仕事なんかが流れてしまう。最低限の生活のラインを守ろうとすればする程に夢は遠退いてしまう。日々の生活に追われて、余計なことを考えなくなる。
そうなると、人はどうなるか?心を亡くすのだ。「忙しく」なると「忘れる」のだ。大事にしていた記憶さえも。人間余裕が無くなると、心の容量を目先のことで満杯にさせる。当然といえば当然のことだが、それが今、とてつもなく耐えられない。現在のモノクロの日々で、昔のきらきらとまぶしい記憶を上書きしたくない。しかし、消すも残すも全ての作業は自分が行っているのだ。
そんな自己矛盾の中で生きているわけだが、たまに不思議なことが起きる。忙しいバイトの合間、ふとした隙間を埋めるかのように、記憶の断片が脳裏をよぎるのである。それは本当に今まで忘れていた昔の、しかも一場面だったりする。冒頭の「ランドセルからレゴブロック事件」も、その一例だ。
現実逃避なのかなんなのか…理由は分からない。ただ、このフラッシュバックには何か意味があると僕は信じたい。
心を亡くし続ける日々の中で、上書きされることなく体のどこかの片隅でひっそりと生き続けてきたこの記憶は、自分という人間を形作る契機になっていたのかもしれない。もしくは、これからの自分の指針となるべきメッセージが隠されているかもしれない。
過去の自分が残したものを、現在の自分が真剣に見つめて、未来の自分に託すんだ。
僕は、今こんな状況だからこそ、自分自身と見つめ合わなければいけない。読む人にとっては「自称役者」の「自称作家」デビュー作という印象で終わる可能性は十分にある。しかし、同じ境遇にいる人の道標になる可能性だってある。僕はその可能性に賭ける。
レゴブロックで形成するように、僕は記憶の断片をつなぎ合わせる。
これは、ある種の「私小説」であり、「エッセイ」でもあり、そして自分の中だけで行われる記憶を巡る「旅」である__