夜のほとりで待ち合わせ 13
父を喪ったあと、母は笑った。
いつまでも塞ぎ込む娘が心配だったのだろう。いつまでも笑わない娘に心を痛めたのだろう。
母は―――心痛にやつれた顔で、笑った。―――ミユキのために。たったそれだけの、ために。
母を幸せにしたかった。名前の如く、母にはいつだって幸せでいてほしかった。
でもそれは無理だった。大き過ぎるものを永遠に失ったあと、ひとはどうやっても幸せになれるわけがない。―――そう思った。
即死でよかったわね。―――自分より誰かに不幸でいてほしい理由はなにか。・・・・・・そのひとと比べた時に自分がまだ幸せに感じられるように。不幸なひとを見て、あああれよりはましだと安心したいがため。
その気持ちはよくわかった。本当に、よくわかった。
だからこそミユキは、自分より母に幸せになってほしかった。自分と比べて、幸せな人間になってほしかった。
けれどもそう強く思う反面、不幸にはなりたくないと思う自分がいる。・・・・・・母親に幸せになってほしいのに、自分の力ではなにも出来ないから自分が不幸になるしかないのに―――不幸になりたく、なかった。
母と一緒にいることはミユキにとってあたたかくて、幸せで、・・・・・・そして息苦しかった。
母が好きだった。大切に思えば思うほど、息は苦しくなってゆく。
母をひとり残せない(だからわたしは絶対に死ねない)。母にこれ以上喪わせたくない(だからわたしは絶対に死ねない)。母になにかあった時、全力で力になれるのは自分しかいない(だからわたしは絶対に死ねない)。
母の手に残った唯一の『大切なもの』だから、絶対に消えたり出来ない。
愛おしい。息苦しい。
ずっと一緒にいたい。それが辛い。
幸せになってほしい。その力が自分にはない。
母と一緒に生きることは、幸せであたたかくて息苦しく辛かった。
「お母さんが父さん再婚した時―――本当に、本当にほっとした。
ああ、これでわたしはいなくなっても平気だなと思って」
いなくなる自由。
消えてしまう自由。
それを選ぶ自由。
ほっとした。安堵した。―――再婚をよろこんで、反対は一切しなかった。
「例えわたしがいなくなってもお母さんはひとりにならない。・・・・・・わたしはきっと、いろんなことから逃げたかった」
自分で決めた癖に。
それしか方法がない癖に。
それでも、嘘を吐いたまま生きることが、あなたが大切だと堂々と言えないことが苦しかった。
「お母さんと居ると、息苦しくて辛かった」
沈黙。
二階から微かに聞こえる、テレビの音。
「・・・・・・だけど、大好きなの」
声が震える。こんなにもがたがた震えた声できちんと母に届くのかと心細くなる。
「お母さんと毎日一緒にいたかった。引越してほしくなかった。みんなでひとつの家で暮らしていたかった。お母さんと、父さんと、トウマと、わたしで・・・・・・お父さんのことをみんなで話したりしながら、全員で一緒に居たかった。―――だけどそれが、本当に辛くて息苦しかった」
ごめんね、と、言葉が零れる。
「ごめんね。ごめんね。ごめんなさい。・・・・・・わたしはきっと、どうしようもない」
窓の外遠くから、車の流れる音。
「・・・・・・ミユキのそのやさしさで。
どのくらい、お母さんは救われて来たんでしょうね」
母が言った言葉に―――耐え切れなくなって、首を横に振った。
「・・・・・・違う。やさしさなんかじゃない」
こんなものがやさしさで、あっていいはずがない。
やさしさというものはもっとやわらかくて、あたたかくて―――誰もが幸福に満たされるようなものだ。こんな偽善染みて歪んだ間違ったものなんかじゃない。
幸せを望むのに
その方法がわからない。
なにも救えていない。なにも救えなかったから辛くて息苦しくて、離れた時それから解放されたかのように安堵したのだから。
「・・・・・・ねえ、ミユキ。もしね。
世界が闇の夜で、自分ひとりしかいなくて。
これから自分に耐え切れない避けられないことが起こるとして。
でもそこに行くことが自分の幸せなら。そこで出会うひとと一瞬でも過ごすのが自分の幸せだとしたら。
ミユキなら、どう答える?
・・・・・・お母さんは、それを知ってる。ミユキが答えるであろう答えを知ってる。・・・・・・そう、答えることが出来る人間はね。その形はどうであれ―――本当に、高潔でやさしいのよ」
歪んだ視界に、あたたかな顔をする母。
その表情はとても満たされていて、残酷を懺悔したミユキを本当に愛おしそうに見守る。
「・・・・・・わたしは・・・・・・」
胸を掴む。不恰好に自分を抱きしめるように、胸ぐらを掴む。
そして、母が知るという答えを答えた。
「わたしは、」




