夕焼けの魔法遣い 5
ほくほくと体から立ち昇る湯気が完全に逃げ切る前にやわらかい部屋着に着替えた。スウェットのズボンとシャツ、内側がフリースになったふわふわのパーカーというこのホテルにはあまり相応しくない格好だったが、そもそも手持ちの服全てが相応しくないものなので致し方がない。出来る限り素早く廊下を歩く。
「終わったかな」
地下までエレベーターで降り、ランドリー室に足を踏み入れる。大抵の場合無機質で薄暗い空間だろうそこは、流石といっていいのか明るい作りになっていた。そもそもこのレベルのホテルにランドリーがあることが驚きだったが。クリーニングしかないかと思った。意外と需要があるのかもしれない。
お風呂に入る前に回した洗濯は無事終了していた。そのまま乾燥に切り替わっていて、デジタル表示は5となっていた。あと五分。入れ替わりにオーリが今お風呂に入っていることだし、少しここで待とう。備え付けのベンチに腰掛け、無人の空間をぼんやりと眺める。
(ここからオーリの故郷まで一日、かかっても二日・・・・・・明日また洗濯すれば全然足りる)
長いようで短い。なんだかとても、いろいろなことが起きている気がするけれど・・・・・・それでも、決して長くはない。・・・・・・長さが問題では、ないんだな。ちくりと走った痛みにうなずきかけるように、目を閉じる。ランドリー室に響く規則正しい低音に、心が落ち着いてゆく。
逃げて来たこと。
放り出して来たこと。
棄てたいこと。―――消したいこと。
たくさんある。多過ぎて、多過ぎて・・・・・・遠くで響く鐘のように、頭痛がはじまる。
指先が微かに動く。空気を求めるように。
(駄目だ・・・・・・)
駄目だ、息苦しい。眉を顰め、目を開けた。明るくて清潔なランドリー室が、気付けば自分を圧迫して締め付けるものになっている。
(・・・・・・嫌だ)
こくん、と喉が鳴る。瞼がひくつき、呼吸が乱れそうになって―――その時、電子音がして乾燥機の音が鳴り止んだ。はっとして顔を上げる。数拍呆然としたままそれを見つめて、立ち上がり蓋を開ける。まだ温度の抜けていない熱い中に手を突っ込んで服を回収して袋に詰めた。少し、乱暴に。
(・・・・・・帰ろう)
部屋に。・・・・・・早く。
オーリがもう出てるといいな、と、「ゆっくり浸かりなね」と言い残して来た割には酷く自分勝手なことを思いながらランドリー室を出る。袋越しでもほくほくとあたたかさを伝える服を軽く抱きしめ、足早に廊下を歩いた。
長い廊下の先の角、それを曲がる直前間近で明るい声が弾けた。
「え」
「きゃはっ!」
ミユキの少し驚いたような声と高い声。角からものすごい勢いで飛び出して来た何かにぶつかり、そのまま脚が宙を泳いだ。飛び付いて来た何かを抱えるような形で一瞬静止し、ぼふっと音を立てて倒れ込む。腹部に圧迫感があったがぶつかった衝撃の痛みはなく、抱えていた衣類と倒れ込んだ先の毛の長い絨毯が衝撃を和らげてくれたようだった。
「え・・・・・・?」
とっさに閉じていた目を開ける。自分の胴体に跨るようにして座り込んでいるのは見覚えのある砂色の髪の少年だった。灰色の目がぱちくりと瞬き、髪と同じ色の長い睫毛がそれに倣う。
しばし見つめ合った。そのままの奇妙な体勢のまま、数拍。
一度瞬きをしたあとはこちらをただひたすら驚いたような顔で凝視する少年をどうすることも出来ずこちらも見つめ返していたが、流石にそろそろ起き上がるか言葉を交わすか何かしたいと頃だと若干焦りはじめた時、
「・・・・・・あっ、思い出した、間違えたパパの彼女だ」
「え?」
思わず聞き返した。いやまあ、ん?
「えーと、言ってることは分かるしたぶんそれわたしだけど・・・・・・ええとね、彼女ではないんだ」
「あ、そうなの? ごめんね」
「う、ううん」
「もう結婚したあとなんだね」
「んっ?」
驚くこちらに注意も向けずそーかそーかと少年は納得したようにこくこくとうなずいた。
「そうだ!」
「ひぇっ?」
「一緒に遊ぼうよ! ねえ遊ぼう!」
「あ、遊ぶ? や、でも君怪我してるでしょう?」
「君じゃないよアレックスだよ! 奥さんは?」
「ええと、ユキって呼んで。・・・・・・あのね、わたし奥さんじゃ」
「ユキ! 遊ぼう!」
「は、話聞いて・・・・・・アレックスは怪我してるでしょ? 駄目だよ、安静にしてなきゃ」
「怪我ほとんど治ってるよ! これだってもうすぐとれるんだ!」
左腕に巻かれたギブスをちょっと掲げてみせるとアレックスはふふんと笑った。問題ないでしょ? という得意げな笑み。そうだねえと同意してあげたいところだがそういうわけにもいかない。
「じゃ、じゃあママに訊いてみていいよって言われたらにしよう? 知らないひととアレックスが遊んでたらママ心配しちゃうよ?」
「ユキはもうしってるひとだよ」
「うーん、でもママはわたしの名前も知らないでしょう? まずは自己紹介してからじゃなきゃね。だからママのところに案内してくれる?」
「いいよ! ママ泣いたらこまるし!」
それには同意だった。ようやくアレックスが退いてくれたのでよいしょと体を起こす。流石はいいホテル、廊下に倒れたままでも全然快適だった。立ち上がり、一瞬迷ってからアレックスに手を差し出す。
「じゃあ、行こう。案内よろしくね」
「うん!」
小さな手がミユキの手をきゅっと握り、なんだかちょっとうれしくなった。弟を思い出して小さく微笑む。
「怪我は痛くないの?」
「全然!」
「アレックスは強いんだね」
「そうかな? でもママよりは強いかもね! ママ最近泣いてばっかだから!」
泣いてばかり?
「・・・・・・なんで?」
「パパが帰って来なくなってから! もう困っちゃうよね! パパも早く帰って来てくれたらいいのに!」
ゆるやかに呼吸が止まり、足を止める。
隣の存在に目を落とすと、きょとんとした顔で見上げて来る灰色の目。
「ユキ? どうしたの?」
「・・・・・・」
何と言おうとしたのか自分でも分からないまま口を開いた瞬間、ふと音もなく呼ばれた気がして顔を上げた。廊下の先、ちんという軽いベルの音と共にエレベーターから降りて来た彼は、ミユキとその手を繋いだ先の人物を見て少し目を見開いた。
「・・・・・・あー・・・・・・わたしの子じゃないよ?」
「・・・・・・だろうな」
諦めたような顔で嘆息される。いや、そんな風な顔をされても。ちょっと頬を膨らませてアレックスとぱたぱたと駈け寄る。
「またお前はひと拾って来て・・・・・・」
「ま、またってなに」
「あの捻じ曲がった男とか」
「あのひとはなんかもう向こうから来たんじゃん・・・・・・」
「最初はな。そのあとはもうミユキに付いてきたようなもんだろ」
「そんなことないよ・・・・・・最後に拾ったのはオーリだよ」
「・・・・・・」
「オーリだよ・・・・・・」
「・・・・・・今言い訳考えてるから」
「無理だと思うよ」
「・・・・・・。・・・・・・俺の前何人拾ったの」
「拾ったのは確定なんだ・・・・・・二人だよ」
「・・・・・・」
「多かった?」
「いや、意外と少なかった」
「そんな、ひとを捨てびとほいほいのように」
軽いのか重いのかよくわからない会話をとりあえず切り上げてオーリがアレックスの前に屈んだ。倣って隣に屈むとふわりと石鹸の匂いがした。
「ママはどうした?」
「いるよー」
「このホテルに?」
「うん!」
「そうか。・・・・・・ちょっとそれ見せてくれるか」
「いいよ」
元気よく突き出された左腕をオーリがそっと取った。
「どうしたの?」
「ん、こういうタイプの子供なら・・・・・・ああ、ほら」
てん、と長い指がギブスを指差す。白のギブスに黒のマジックペンで書かれた数字の羅列。
「・・・・・・電話番号? お母さんのかな」
「恐らくね。ロビーで電話借りよう。ラウンジで待ってれば合流出来るだろ」
「うん。・・・・・・あ。アレックスはママの居場所知ってるんだよね?」
「知らないよ!」
「そっか・・・・・・」
あれ、案内してくれるんじゃ・・・・・・一緒に探すという意味だったのかもしれない。
「間違えたパパ抱っこしてー」
「なんだその呼び方・・・・・・オーリだよ」
「オーリ?」
「オーリ」
「オーリ!」
「そう。お前は?」
「アレックス!」
「じゃあほら、行くぞアレックス」
ふわりとオーリがアレックスを片腕で抱き上げた。痩せているのにやはり力はある。
「オーリすげー!」
「どーも」
「オーリわたしも」
「いや二人抱き上げるとかどんな非常事態だよ。ミユキはこっち」
にやにやしながらねだってみたが当然のように却下される。差し出された手を握った。
「オーリと奥さんはなかいいねー」
「ミユキだよ。ユキって呼びな。あと奥さんではないな」
「じゃあなかわるいの?」
「仲良いよ。手繋いでるだろ」
答える前に答えられた。ふは、と笑って、きゅっと握る手に力を込めた。




