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ハロー、唄う飛行機 3


二十三番目の窓際二列席。自分のチケットを買った時に青年の分のチケットも自分の隣席に交換してもらったので通路を挟まなければ自分たちだけの席だ。都合よく取れたことにほっとした。

窓際に青年を押し込み自分は通路側に座る。シートベルトを早々に装着した青年は既に目を閉じていた。離陸した瞬間吐いたりするだろうか、と思いシートに取り付けてあるポケットから汚物袋をすぐ出せるように前に寄せる。

とんでもない状況なのに心は酷く凪いでいた。いや、凪いでいるのとは違うのかもしれない。どこも気負ったところがなく、あくまでも自然に行動している。出来ている。それが不自然なことだということは分かっていたがーーーそれが不自然なことだとは思わなかった。

「あのさ、パスポート見せて」

「え?」

眠ってなかったのか、青年が片目だけ開いてこちらを見ていた。小首を傾げる。

「パスポート見せて」

「? うん……」

まだしまっていなかったパスポートを見せる。5年用のパスポート。高校時代の自分の顔が青年を見つめているはずだ、と思うと急に落ち着かなくなった。

「……ミユキ」

「え?」

「ミユキっていうんだな。名前」

「あ……」

そういえばお互いまだ名乗っていなかったーーー返されたパスポートを無意識の内に受け取り、呆然として青年を見やる。

「いい名前だな。ファウスト。幸せたる者」

「……。……みんなは、ユキって呼ぶ」

「ふうん?」

両目を開けた青年がこちらを見たまま言う。

「でも『幸』なんだろ」

「……。……そうだね」

でも幸。そうだ。それだけのことーーーで、あるはずだ。

「……わたしにもパスポート見せて」

しらばっくれるかと思ったが青年はポケットからパスポートを取り出すと人差し指と中指で挟んでこちらに寄越した。アメリカ国籍のパスポート。自分のものとは違うそれを受け取り開く。今よりも少し、若いというよりは幼い顔をした青年の顔写真があった。その下に直筆のサインがある。少しだけ斜に構えたような文字で書かれた青年の名前。

「……オーリ・キサラギ」

はじめて口にした名前だった。当たり前だけれど。

キサラギ・オーリ……異国の顔立ちの奥に、微かに感じる見慣れた同じ島国の雰囲気。既視感を覚えていたのだがそれはもしかしたら青年を創り上げる歴史から来ていたものなのかもしれない。

「……日本に由来があるの?」

「祖父さんが日本人。もう死んだけど……異国人の祖母さんを娶って、親父が生まれた」

クォーターということか。ふうんとうなずいてパスポートを返す。

「じゃあ漢字もあるのかな。どんな字を書くの?」

訊ねるとふわりと左手をさらわれた。あ、と思うより早く、青年が掴んだ方と逆の手の指先でミユキの手のひらに文字を掠めていく。むず痒くなって背中にくすぐったさが走ったがなんとか飲み込んで手のひらに集中した。

「ーーー『如月 桜里』」

そう、と彼がーーー如月 桜里がうなずき、するりと手が解放される。

きれいな字面だと素直に思った。

「……桜の里。みよしの?」

「よく分かったな」

如月 桜里は少し驚いたような顔をした。

「最近の奴はそういうのに興味ないのかと思ってた」

「どうだろう。わたしは結構好きだけど……詠み人知らずなのがまたいいなあって思ったよ」

古今集にある作者不明の春の詩だ。実は一番気に入っている詩だったりする。

「ひょっとしてお祖父さんは吉野出身なの?」

二度目の「よく分かったな」を頂いた。飄々とした顔の奥に感心するような色を含んで青年はうなずく。

「生まれも育ちもそうだったらしい。だから毎年春の朝は、霞みがかった朝焼けの中空気を染める桜を飽きもせず眺めていたんだと。……祖父さんの人生の中でとても美しかった瞬間のひとつなんだってさ」

「……分かる気がする」

静かにうなずくと、彼は少し興味を持ったようにこちらの顔を覗き込んだ。

「……どうした」

「わたしのお父さんも吉野出身なの。だから吉野の桜も見たことがある」

最後に見たのは、そうだーーー父が亡くなったあと、半身を失ったあとだ。

母と一緒に父の実家に行き、まだ薄暗い空の下そっと家を抜け出して何かに急き立てられるように走ったことがある。その時が最後か。もう十年近くも前のはずなのに、苦しくなるほど記憶は鮮明だった。

くしゃり、と微かな体温が頭に触れた。気付かない内に伏せていた顔を上げると彼の顔が思ったより近くにあった。深い色の灰色と青色が自分の特に面白味もないだろう黒い色を覗き込んでいて、その眼の強さが静かに胸にまで届く。

「悪かった」

「え……」

「何か思うところがあったんだろ」

「あ……」

呆然と言葉が漏れる。ふる、と、小さく頭を横に振った。

「……大丈夫。へいき。ありがとう、如月さん」

「オーリ」

「え?」

「オーリ。これから数日一緒にいるわけだしずっとさん付けは息苦しい」

「……オーリ?」

「なにミユキ」

「……ううん、なんでもない」

はじめて呼ぶきれいな名前、そして久々に呼ばれる自分の名前。その名前を呼ばれることは少し怖くて背筋が冷たくなる。けれどその不安を封じ込めるように彼の名前を呼ぶと、それが打ち消されたようにふわりと心が軽くなる。擽ったくて、面映くて、ふは、と小さく笑った。

「なんで笑ってんの」

「なんでもない。オーリって眼がきれいだね。不思議な色をしてる」

「そう? はじめて言われた」

「そうなの? ずっと見てても飽きないし、なんだかすごくいい気分になるよ」

「ふうん。じゃあいつでも近くで見ていいよ。それが報酬のひとつな」

「え?」

首を傾げるが、オーリは飄々としたままなんでもないことのようにうなずいた。

「だから、ミユキの報酬。移動中の金銭はこっちで払うけど、それ以上のもの払えるわけじゃないから。だったら出来ることで賄うしかないだろ。眼を見せることくらい安いもんだ」

「嫌じゃないの?」

「何で?」

何でと言われて逆にこちらが首を傾げることになった。何でって。……何でだろうね。想像してみたらすごくシュールな画になったのだけれど、彼が別に大したことじゃないような口ぶりで言うので確かにそんなものなのかも、なんて思った自分がいた。

「見たくなったら言って」

「分かった。見たくなったら言う。……ねえオーリ」

「なに?」

「なんでわたしたちさっきから英語で喋ってるの?」

「もう子供じゃないとか言ってたけどパスポート見たらまだ十九じゃん。周り日本人ばっかなんだし、自己紹介してるの聞かれたら確実におかしいと思われるだろ」

「なるほど。…因みにいくつに見えてたの?」

「十六。日本人云々置いておいてミユキ凄まじい童顔だな」

「うるさい馬鹿黙って」




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