君のための日常 21
ふらり、と列車が不規則に揺れた。バランスを崩し、倒れ込みかけたミユキの手を、のびてきた手が捕まえる。
オーリ。
「…オーリ」
「ミユキ」
頭の中がふわふわとする。そのまま床に座り込む形で抱きかかえられ、その時漸く、揺れたのは自分の体だけだったことに気付いた。頭からも体からも完全に力が抜けていた。抱えられると同時に強く抱きしめられ、視界がオーリでいっぱいになる。
唇を噛む。斜め下からオーリの顔を見上げ、耐え切れなくなって抱き着いた。滑らかな肌に汗が滲んでいて、オーリにとってもきつかったのだと、それが心を締め付ける。
ぎゅっと抱きしめ返され、涙腺が痛んだ。涙だけは流したくなくて胸に顔を押し付けたが、堪え切らず肩が震えた。
「怪我ないか」
耳元で微かに震える声がささやいた。こくこくとうなずくと漸く安堵したのか深い深い息を吐いた。
「…オーリは」
「平気」
「嘘、何度か倒れたーーー」
身を引いて顔を見上げようとしたが抱きしめる腕が許さなかった。
「分かったから。…今はこのままでいさせて」
自分を包む体が微かに震えていることに気付いた。一瞬眼を見開いてーーーそれから、預けるように凭れかかる。きつくきつく、抱きしめられた。
どのくらいそうしていただろうか。オーリの震えも自分の震えも収まり、お互いの鼓動の音がゆるやかになるまでじっとそのままで過ごし、漸くオーリが腕から力を抜いたのでのろのろと顔を上げた。疲れていたが、灰色の奥の青色の眼はきちんとした意志を持って揺らいでいなかった。
「…サムーーー」
漸く自分たちの周りを気にすることが出来、視線を巡らす。力は抜かれたがまだすっぽりとオーリの腕の中に収まったまま顔を上げた。
サムはとっくに男を拘束していた。どこから取り出したのか結束帯で男の手と足を縛り上げ、うつ伏せにして通路に転がしている。
「無事か」
「…無事だけどね」
それよりーーー鳶色の眼がぎこちなく向く。ーーーアイスブルーの眼に向かって。
「ーーーあなたがーーーサム、なのよね」
ぽつりと。冷たい水面に落とされた、一粒の氷の結晶。
ゆるやかに、溶けていくかもしれない。形を変え、水として溶け合って、いつしかきれいに混ざるものなのかもしれない。ーーーけれど。
その身を削って。擦り減らして。ーーー自身を損ないながら、必死に混ざろうとすることが、どれだけ痛みを伴うものなのか。
呼びかけようとしてーーー口を開けたまま、唇は名前を紡げなかった。
だって、どうすればいい? 誰の名前で、彼女を呼べばいい?
「あなたが、サムだった。サム・ジェイキンスは、あなただった」
大きな瞳が瞬きもせずサムを見つめる。長い睫毛が揺れーーーぼろりと、涙が流れた。
力を失くしたように床に膝を落としーーー顔を覆う。
「あなたがサムならーーー私は一体、誰なんだろう」
「私は、本当は、ひとりぼっちなんだ」
「違う」
震えた声が水面を叩いた。鳶色の奥に熱を含んだ眼が彷徨い、彼女から視線を逸らす。必死に探された彼による彼だけの言葉は、全てが等しく震えていた。
「違う。ひとりぼっちは僕だ。僕だったんだ…誰にも理解されないことに劣等感を抱いて、その癖ひとと交わることに怯えていた、情けない孤独は僕のものなんだ。君のものじゃない。
君はひとりなんかじゃない。大勢の人間が君を愛している。君のことが大好きなんだ。僕はーーー僕はそんな君に憧れた。僕の憧憬は、ずっとずっと、君なんだ。僕がひとりぼっちじゃなくなったのは、君がいてくれたからなんだ。僕はーーー僕は、君がいてくれてはじめて分かった。ひとりぼっちはさみしいんだ。悲しいんだ…。君はひとりなんかじゃない。君が僕を忘れても、絶対に、絶対に違うんだ」
この感情の名前は、なんだろう。
酷く怯えた男がひとり、視線も合わせられないまま声を震わせーーーそしてゆっくりと、彼女に歩み寄る。
「でも、僕が君にそばにいてほしかった理由は、君が僕をひとりぼっちにしないからじゃない」
うつむいた彼女が、顔を上げる。
「君が笑うと僕は幸せな気持ちになれた。君が幸福で満たされていているのを見ていたかった。…君が好きな花ひとつ知らない僕だけど、それだけは、それだけはきっと他の誰よりも強い思いなんだ」
視線が、合う。鳶色の眼と、アイスブルーの眼。
「君は僕の大切なひとなんだ。ーーークリス。僕は嘘吐きで、君にも嘘を吐けるけどーーーこの気持ちにだけは、嘘が吐けない。それだけが、僕の本当なんだ」
迷子みたいな、泣きそうな顔で。
涙を流す彼女に、そう言った。
「…私が、クリス?」
「そう。君が、クリス」
「私は、あなたのそばにいたのね?」
「そう。僕が引き込んで、引き止めた。僕たちはずっとずっと、事件を解決して来た」
「ずっと、ずっと?」
「ずっと、ずっと」
見つめ合ったまま、自分の心に問うように彼女は時間を置いてーーー
瞬きと共に、涙が零れ落ちた。止まらない、あたたかい涙だった。
「よかった」
本当にうれしそうに、幸せそうにクリスが微笑む。
「それだけは、本当だった。ーーーあなたの眼は、鷹の眼みたいに全てを教えてくれるのね。サム」
鷹の眼が見開かれる。かつてその眼を疎み、劣等感としたかつての少年は、くしゃりと顔を歪ませーーー
差しのばされた白く美しい手を、震える手が、握った。
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