君のための日常 11
人質になったーーーと分かった瞬間、襲ったのは激しい憤りだった。
熱さにも似た酷い怒り。振動が止み静かになった列車内、何かがうるさいなと思ったが、どうやらそれは自分の叫び声のようだった。
悲鳴ではない。怒号にも似た単なる叫び声。
全力で喚き、滅茶苦茶に腕を振り回した。ちくりと喉元に小さな痛みが走り、それと同時に解放される。瞬間、身を翻してその勢いそのままに鋭く腕を凪いだ。飛び退くようにしてクリスが退き腕は空ぶる。平静な目がこちらを見ていた。
「絶対にーーーわたしをーーー人質にーーーするな!」
熱さに目が眩む。ふらりと脚が泳いだところでうしろから誰かに抱き込まれた。
「ミユキ! 落ち着け!」
「なにがーーー!」
「こっち見ろ! ミユキ!」
見ろって。見てるじゃないか。
声のする方を見ている。オーリの姿はーーーないけれど。
ひくっと、奇妙な形に体が引き攣った。そのまま呼吸が浅くなっていく。ひゅうひゅうと喉からおかしな音が鳴り、立っていられなくなって完全に力が抜けた。
「ミユキ! ミユキ!」
「ーーー過呼吸だろ。早く部屋に」
お前が言うな。
「お前が言うな!」
オーリが自分の言いたいことを言ってくれたので満足した。白く染まっていく視界の中、オーリの胸元の真鍮のホイッスルが鈍く輝いていて、
実はこっそり、助けを求めるなら叫んだ方が早いんじゃないかと思ったけれど、こういう状況なら確かにホイッスルの方が有難いかもしれないなと、場違いなほど冷静に思った。
「ちょっと構えられただけでこの拒絶反応、この子は人質に対して酷い恐怖体験でもあるのかい?」
「知るか! そもそも人質体験自体酷い恐怖体験だろ!」
オーリが怒っている。クリスの冷静な声がそれを助長させている。
この二人、相性が悪いなあとぼんやり考えてーーー漸く、ばらばらだった意識の細い細い糸が縒り合わせられ、一本の意識になった。ぼんやりと目を開ける。
「ミユキ」
まだ霞む視界に、オーリの顔。なんだか少し泣きそうな顔をしている気がする。ーーー本当に、泣いてないよね? 心細くなって、手をのばした。頰に触れる。
あたたかくて、乾いたままだった。そのことに酷くほっとして息を吐く。
「…よかった」
「こっちの台詞だろ、それ」
安堵したようにオーリが深く息を吐いた。頰に触れた手を握られ、灰色の目が伏せられる。それが少し不満だった。
「…オーリ」
「なに」
「それやだ、報酬希望」
意図せずむずがる子供のようになった。長い睫毛がふわりと上がり、灰色とその奥の青色の目が自分を見つめる。その色と視線に安堵し小さく笑うと、やっとオーリも少しだけ笑った。
「起きれるか」
割り込んで来た声にオーリが一気に不機嫌になった。不機嫌どころじゃない怒りに満ちた顔。
「起こすな」
「や、大丈夫。起きる」
というか、横たわっていたのかーーー今さらながらにそれを自覚する。二段ベッドの下の段、自分たちのベッドーーーに、横たわっていた。一応意識は途切れていなかったのだが、途切れていなかっただけで理解まではしていなかったらしい。
ベッドの上で上体を起こし、寒さを覚えてふるりと震えた。オーリが肩に毛布をかけてくれる。そのまま引き寄せられ凭れかかるようにして、壁に背を付けたまま立っているクリスを見上げた。
「すまなかったね。君たちの反応を見なくてはならなくて」
「そんなことでミユキを傷付けたのか」
「暴れたのはその子だ。僕は傷付けるつもりはなかったよ」
怒りでオーリの体が膨らんだのが分かって手を握った。抑止力には到底足りていなかっただろうが、それでも一応オーリは止まってくれた。それより。
「…きず?」
「喉元だよ。ナイフで切られたんだ」
「少し切れただけだろう。僕も咄嗟にナイフを退いたんだから」
「黙ってろ!」
言われてみればそうだったか。喉元に手をやるとガーゼが当てられていた。オーリのものではないだろう。となるとクリスのものか。なんだか変な状況だ。
「傷は浅いし、残らないから。…でも血がなかなか止まらないんだけど」
「あー」
たぶん、紙で切った程度の傷なんだろうなあと思いながら、幾分はっきりとした頭でのんびり答える。
「元々血が止まり難い体質なの。昔からそうだよ。だから気にしないで」
「気にするだろ。大丈夫なのかそれ」
「今のところ大きな怪我は一回しかしてないし。次困る可能性があるとしたら出産の時じゃないかなあ」
「一回目は何だったんだ」
「ジャングルジムから落ちた」
「…ひょっとしてこれその時の傷?」
さらりと髪を梳かれる。左耳の裏に風が通り、小さくうなずいた。
「うん。勲章」
「そうか」
「うん」
「納得してるとこいいかい」
「よくねえよ黙ってろってんだろ」
「オーリ、態度悪いよ」
「当たり前だろ。何されたか一から十まで考えてみろよ」
「それもそうか」
酷く納得した。ことが起こる前と変わらない様子のクリスを見てーーー恐らく致命傷に繋がるであろう言葉は、簡単に出て来た。
「…サムは?」
クリスの表情は揺るがない。目を逸らさず真っ直ぐ見つめ続けると、ふ、と視線を逸らされた。
「…眠っている」
「この騒ぎの中で?」
「眠らせた」
だろうなとは思っていた。
「…睡眠薬でも飲ませたの?」
「行動を奪う手段としては穏やかな方だ」
「いやそれでもじっとしててもらうために睡眠薬飲ませる人間はじめて会いましたよ」
くしゃみが出た。しかも三回。オーリが眉をひそめて肩を抱き寄せた。
「寒い?」
「ううん、なんか急に。…なんでそんなことしたんですか?」
探偵とその助手、探偵のことを助手が睡眠薬で眠らせるなんて前代未聞じゃないだろうか。部下が上司に一服盛るようなものだ。いやそう考えるとやりたいと願っているひとは大勢いるだろうけれど。探偵とその助手…
「…拳銃、ナイフ、鬱患者、睡眠薬、止まった列車ーーーどう考えてもお前の方が怪しいだろ」
無意識だろうか、肩に置かれた手に力が入る。視線を逸らさないままドアへの歩数を目測した。窓はあるがはめ殺しだ。ドアしかない。
「ーーー君どんな日常送ってるんだい? 今考えただろ」
読まれた。表情を変えず、奥歯を静かに噛むのも止める。
「ーーーまあいいか。君たちは不可思議で怪しい旅行者なだけのようだし」
クリスは。そう言ってはじめて、大きく息を吐いた。ーーー安堵でも疲労でもない、困惑にも似た嘆息。
「この列車の中に銃を持った人間がいる。そいつは僕らを狙っている。ーーー恐らく、同室になった君たちも狙われた。この列車から生きて降りられる可能性は、極めて低い」
まるで映画みたいだなと、そんな風に思った。




