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君のための日常 9


「…鬱症状か? あれは」

ややあってオーリが言った言葉にミユキは首を傾げた。いい加減痛むであろうオーリの手を解放し、ごめんね、と小さく謝ってから自分の首筋を撫でる。薄っすらと冷や汗をかいている気がした。

「なのか…な。詳しくないからなんとも言えないんだけど」

正直言って驚いた。恐怖を覚える以前の問題だ。驚き以上に感情が進まない。

中途半端に目元を固めた奇妙な表情。瞬きもせずに唇だけ動かして喋り続ける、健康美の女ーーーちぐはぐ過ぎて少しだけ恐ろしくなった。拳銃より身に迫るような冷たさ。

「…まあクリスは何か知ってるみたいーーーだ、し。理解者がいるのなら大分楽でしょう」

「身に覚えでもあるような言い方だな」

墓穴を掘ったかな。

「んー…わたし、じゃあないけれど。なかったけれど。…今から考えると鬱だったんだろうなあって子が、中学の時にいてね」

とても女の子らしい女の子だった。かわいらしく、明るく、自分の笑顔というものがどれだけひとを惹き付けるか理解している女の子だった。

「残念ながら、その子に理解者はいなかった。…無意識の内にそれをわたしに求めていたんだろうけど」

「理解したの?」

「ううん」

首を振る。しっかりと、横に。

「鬱を認めないとか、そういう話じゃないんだ。誰にだって起こり得ることだし、わたしの大切なひとがそうなったならば全力を尽くさせてもらう。…今なら。あの時はーーー」

あの時は、あの時が。

「わたしもーーー中学生、だったから。鬱とかそういうものの存在を知っていても自分と関係あることだとは思わなかったし、考えてみたこともなかった。…言い訳だけど。それよりもーーー」

一度口を噤む。言っていいのか、悪いのか。ーーーいや。自分が決めることだ。

「…わたしはあの時、誰とも関わりたくなかった」

ひとりがよかった。

『周りにいる人間』が『友達』という人種ならーーーミユキは、『友達』がいらなかった。

「頼むから放っておいてくれって、そう思ってた。自分の周りを離れないその子が煩わしくて疎ましくて仕方なかった」

今ならまた、違っただろう。あれから数年とはいえ年を重ね、あの時より心に余裕のある今ならば。もう少し上手く距離を取り、仲良く出来ていたかもしれない。

けれどあの時は、全てが無理だった。自分のことに精一杯でーーー大体のひとがそれは思春期特有のものだと思っていただろうけれど。

「反抗期だとか、難しい時期だからとかいろいろ言われたなあ。その直前に親が再婚したからだとかも言われて腹が立った覚えが。まったく、私の性格が悪いのは私のせいなのに」

「ミユキっておもしろいよな」

まじまじと言われても。

「反抗期とかあったの?」

「いや、全く。家では家族と仲良く喋ってたよ。土日はいろんなとこ連れてってもらったし。虐めとかしてたわけじゃないし、成績は悪くなかった。授業も真面目に受けてたし高校受験も第一希望のところに行ったよ。そういう面では全く問題がなかったんじゃないのかな。ただ本当、放っておいてほしかっただけなんだけどなかなか理解してもらえなくて」

特定の誰かと付き合いたくない、は虐めに繋がっていくかもしれないが、頼むから放っておいてくれひとりにさせてくれと自分から身を引くのはじゃあ一体何になるのか。理解されなかったし、どうしてだが知らないが、中学にいた周囲の人間は教師含めそれを認めてはくれなかった。

「ひねくれてるって言われればそれまでなんだけど。あの時はどうしても嫌だったんだよね。なんでそれが許してもらえなかったのか本当に理解出来なかった」

その子に酷いことをしたーーーことは、ないだろう。

ミユキはその子に何もしなかったのだから。

何もしないことが酷いことをしたことになるのならば、話は別なのだけれど。

「その子はーーーわたしのことが、きっと好きだった。けど、わたしは別になんとも思ってなかった。なんでそんなに執着されるのか分からなかった」

「解決したの? それは」

「…どうなのかな。結局その子は引っ越したらしいし、高校も別々だったし。…高校はーーー高校は、一生涯の友達が出来たけど」

結局のところ、ミユキにとってその子は徹底的に気の合わない子だったのだーーーその子にとっては、違ったのかもしれないが。

だって、たらればの話になってしまうが、中学時代に親友をはじめとする愛すべきクラスメイトたちに出会っていれば、また自分も違った学生生活を送っていたのだろうから。…いや。その時期は、ミユキの親友もいろいろあって大変な時期だったろうからーーー結局のところ、仮定の話でしかない。自分たちはきっと、出会うべきタイミングで出会ったのだろう。

「だからまあ…鬱とか精神的なものだけに限った話じゃないけど、きっとまず理解からはじまるはずなのかな、って思ったの。だから大丈夫じゃないのかな」

取り成すように言って、まとめた。ボックス席に二人並んで座るという奇妙な席順のまま、しばらくそのまま黙る。…沈黙は別に気まずくはなかった。むしろ満足だった。会話を交わさなくても、すぐ隣にいる。気配は必ず、近くにある。それをお互い知っているし分かっている。そのことが呼吸を楽にする。

何を考えているのか分からなかったが、オーリは窓から入る明るさをその灰色と青色の目に反射させ、穏やかで落ち着いた光を含みながら静かに斜め下に視線を落としていた。特にこれといって表情があるわけではない。

穏やかな時間だった。考えてみれば、飛行機からはじめとして自分たちは向き合って座るよりこうして隣り同士にいることが一番慣れた布陣なのかもしれない。だからこそこんなにも落ち着くのか。

規則正しく走る振動。たまに触れ合う腕と腕。

胸に手を当てる。問うように。ーーー酷く呼吸が、しやすかった。


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