ハロー、唄う飛行機 1
ーーーそうだな。
どの話から、話そうか。
〈 ハロー、唄う飛行機 〉
ポン、ポ……ン……何か丸く叩くととてもかわいらしい音が出るそれを、よく響くように叩くイメージ。空港でよく鳴るチャイムは、ミユキの中ではいつもそんなイメージだ。
強風の影響が出るとニュースでやっていたのでだいぶ早めに家を出たが、電車は問題なく動き続け定刻通りにミユキを空港まで届けてくれた。つまり、暇だ。だいぶ時間が余ってしまった。
肩からずれてきた大きめの肩掛け鞄を定位置にずらし、高い天井を見上げる。貴重品が入っているため荷物を預けることが出来ない。両親のところに行く時はいつもこのような身軽なスタイルだった。
クリスマスももう前日に終わり、あとはもう今年を終えるだけの時間は昨日までの浮かれっぱなしを少しだけ抑えて、落ち着いた足捌きで確実に歩み続ける。
無人チェックインの機械は混み合っていた。まだ時間には大分余裕がある。そう急ぐこともない。ベンチに腰掛け、世界的に有名なコーヒーショップで買った若干値の張るサンドイッチの袋を開けた。ーーーと。
「……あのさ」
気付いてはいた。が、気にしないふりをしてひとつ席を空けて隣に座った。……のだか、その相手はそんなことを気にもせずその空間を通り越して声をかけてきた。サンドイッチを手にしたまま一度瞬きをして左隣を見やる。
ぐったりと、身体全体を椅子に預けるようにして座っているひとりの青年ーーー少しぼさっとした茶色い髪の頭が動き、前髪の間から灰色の眼が私を睨むようにして見つめた。典型的な二日酔いでダウンしているひとのように見える。とはいえ。
「……はい、なんでしょうか」
サンドイッチを持った手を膝の上に下ろしなるべく丁寧に訊ねる。酷く気怠げな、何もしなくても毛穴という毛穴から体力気力その他諸々の力が抜けていっているんじゃないかというくらい脱力した様子で青年が言う。
「今何時?」
「え?」
はたりとする。青年の腕にはクロノグラフが巻き付けてあった。視力がいいので薄い秒針が強化ガラスの下できちんと時を刻んでいるのも見て取れる。時差計算が面倒なのだろうか……それにしたって普通あえて訊くだろうか……こちらの視線に気付いたのか青年がのろのろと視線の糸を辿り自分の右腕に辿り着く。そしてああ、と自分でも意外そうな顔になった。
「あー……そっか。時計はまだ売ってなかったんだっけ……忘れてた」
「はあ……」
曖昧にうなずく。別に何かに同意したわけでもないがーーー売った? 『まだ』売ってなかった?
自分の腕時計に目を落とし、「あー……」と分かったのか分からなかったのかいまいちよく分からない音を零し、ぐてっとうなだれる。
「……あの」
「ん……」
「あの、これ、食べますか?」
自分で言った言葉に自分でびっくりした。どう見たって不審人物だ、こちらから関わる道理はないーーーない、が。
のろのろと視線を上げた青年は、サンドイッチを斜めに見つめて黙った。たっぷりとした、けれどたった数拍の沈黙に耐えられなくなって「なんでもないです」とサンドイッチを下げようとした、時。
首をのばした青年ががぶりとサンドイッチに噛み付いた。ぎょっとして身を引きそうになったがなんとか体を押し留める。普通受け取るとかしてからじゃないのか。いやまあとにかく。
なんにせよ、青年は一口分サンドイッチを咀嚼して飲み込んだ。随分長く咀嚼していたように思えたが、まあよく噛むことは体にとって悪い話ではない。
「ありがとう」
ぼんやりとしていた青年が急に明瞭にそう言ったので、少しどきりとした。なんとなく焦ってサンドイッチに目を落としたが、一口分しか齧られていないそれは具に到達しておらず、ただプレーンな味のパン部分だけを齧っただけのようだった。半分に千切って渡せばよかったか。
もう少し食べますか? そう言葉を重ねようとした時、急に青年が立ち上がった。そのままぐらっと体が揺れて椅子に縋り付くようにして倒れ込む。膝の近くに青年の頭が落ちて来た。
「ちょっ……大丈夫、ですか」
「うん……」
さっきは明瞭だった声がまたぼやけるように滲む。ピントが少しだけ合っていないような、そんな声。
「どうしたんですか」
「……トイレ行きたい」
「トイレ?」
視線を巡らせて案内表示を探すーーーあった。指をさして伝えようとしてやめた。広い空港内、このへろへろなひとひとりで辿り着けるわけがない。
「立てますか?」
「立つ」
「えっと……」
少し考えて、腕を手に取った。肩を貸すように体を潜らせ青年が立ち上がるのをフォローする。
「行きましょう」
「……悪い」
「いいえ。掴まってくださいね」
一歩一歩歩き出す。最初は泳ぎつつあるような足取りだったが徐々にしっかりとしていき、トイレに着く頃には少しはましになっていた。それでも頼りなく、不安にさせられる。
「入れます?」
「大丈夫。ありがとう」
口元を押さえた青年が小さくうなずき、真っ青になった顔のままよろよろと中に入って行く。流石に男性用トイレには入れないので入り口でそれを見送った。当然だが中を窺い知ることは出来ず、うろうろとこちらの方が落ち着きなく視線を彷徨わせ、手にしたままだったサンドイッチに気付いた。結局自分は一口も食べていなかったが、今食べる気にもなれず紙に包み直して袋に入れ鞄にしまった。
もう行って大丈夫だろうか、いやでも、出て来るまでは見届けた方がいいだろうかーーー誰か男性かスタッフを呼んで様子を見てきてもらった方が、
その時、中から激しく咳き込むような音がした。それから嘔吐するような水音も。ぎょっとして凍り付き入り口を凝視する。中途半端に口が開いた。
しばらくの雑音、水を流す音、苦しそうな声ーーーそれらが続き、やがて静かになった。
怖くなる沈黙。
「……あのさ、まだいる?」
沈黙を破ったのは青年だった。疲れたような声が少し響いて届き、がくがくとうなずく。返事をしなければ見れないということに気付きあわてて声を大きくして返した。
「い、います。いますよ」
「悪いけどちょっと来てくれる」
「え……」
「あー、誰もいないから」
今誰もいなくても誰か来たら問題じゃないのかーーーいや、誰も来なくてもそもそも入ること自体が問題だ。いやでも非常事態だし、
「っ、」
一瞬で覚悟を決めた。辺りを見回して誰もこちらに注目していないことを確認し素早く中に駆け込む。青年は洗面所にいた。膝を付き洗面台に縋り付くようにして脱力している。水に濡れた前髪の間から覗いた目が、苦笑し損ねたようにこちらを見た。
「……手貸してくれる?」
あわてて駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか」
「うん……」
「いや大丈夫じゃないでしょ、吐いたんですか?」
「や、吐いてない」
「いや吐いたでしょ」
「吐いてない」
「……」
横からじっと見つめる。間近で見ると、青年の眼の色は単なる灰色ではなく奥の方で青味がかって見えた。青灰色とはまた違う、どこまでも先があるような深い色。きれいだ、と素直に思った。
その美しい色の瞳がばつが悪そうにうろうろと動き、ぎこちなくこちらから視線を逸らし、
「……吐いた」
「でしょうね」
白状した。ため息を吐きそうになってそこで気付く。ぎゅっと胸が痛くなった。
「……ひょっとして、私がサンドイッチ食べさせたからですか?」
「や、別に……」
「そうでしょう。だから最初迷ったし、一口しか食べなかったんだ。食べる前からこうなること分かってたんじゃないんですか? なんで食べたんですかっ、」
自分で言葉を重ねて行く内にどんどん分かっていくーーーパンみたいな固形物では駄目だったのだ。なのに分かっていた上で青年はあれを素直に口にした。
「……いい奴だから」
「え?」
「明らかな不審者に対して女の子が食いもんくれたりしないだろ、普通。どんないいひとだよ。……それ断るほど俺は賢く出来てない。だから泣かなくていい」
そう言われてはじめて、涙が滲んでいたことに気付いた。袖口でぐいと強引に拭い、睨み上げるようにして耐えた。
「……係りのひとを呼びますね。待っててください」
踵を返して出ようとした時、手首が青年に捕まった。驚いて振り返ると、深い色をした灰色と青色が自分を真っ直ぐに見つめていた。その色の奥に、捉えられないくらいの何かを含めて。
「呼ばないで。飛行機乗れなくなる」
「乗らない方がいいと思います」
「乗らなきゃいけない」
「そんなこと言ったってこんな状態で乗ったら危ないです。二日酔いとかじゃないんでしょう?」
「それでも乗らなきゃならない」
何で、と言いかけて言葉を飲み込まれた。この深い静かな色を前にしたら自分の言葉はあまりにも安っぽくて取るに足らないものとしか思えなくなる。
「乗らなきゃいけない。俺は行かなきゃならない。帰らなきゃいけない」
それから、迷子みたいな顔になった。眉を下げ、困っているような、幼い子供が何かを必死に訴えるようなーーー
「……かえり、たい」
余りにも心許ない、心が剥き出しの声で。
自分の心臓が、傾いだ音を聴いた気がした。
「ーーー……そう、ですか」
呟く。小さく。握られたままの手首を見、ゆるく握って解放させる。すんなりと青年の手は解けた。ぷらん、と、長い腕が垂れる。
「分かりました。分からないけどーーーわかり、ました」
うなずく。分からないけどーーー分かった。
呼吸をしているだけでは、息をしているだけではどうしようもなく苦しい時がひとにはある。
「……気を付けてください」
「……ありがと」
「いえ。……じゃあ」
立ち上がるのだけ手伝った。なんとか立ち上がった青年の目が離れる。……背が高い、と場違いなほど冷静に思う。
あえて目を見ずうなずいて、今度こそ踵を返した。足早に男性用トイレをあとにする。
青年があとに続いてトイレを出たのが気配で分かった。そして自分とは真逆に歩きはじめたのも。
しばらく歩いて、それからそっと振り返った。
長身痩躯の茶色い髪。先ほどよりはしっかりしているがそれでもやはり頼りない足取り。
それでも一歩一歩踏み出す脚。進むことをやめない脚。あんなにぼろぼろでーーーどれだけぼろぼろの状態でも、必死に自分の行きたい場所へと進むひと。
知らない、ひとだ。
そうだ。全くの赤の他人で、自分の人生に関わりのないひとでーーーだから?
それが理由、で?
「……」
立ち止まる。自分の足元を見てーーーそれから、青年の後ろ姿を見て。
その姿は誰にも重ならなかった。
一瞬たりとも、微塵も重ならなかった。
「ああーーーもう」
吐き捨てるようにうめく。鞄をしっかり肩にかけ直し、そして、
走り出した。完全に踵を返して、あの長身痩躯の背中に向かって。
青年の体が傾いた。うしろから抱き着くようにしてそれを止め、腕の下から覗き込むようにして驚いたような顔の青年の顔を見上げる。
「わたしも行く」
「は?」
「わたしも行く。ひとりだと危ない」
「や、お前なに言って、」
「帰りたいんでしょ? いいよ、手伝う。これも何かの縁だから」
「お前だってどこか行く予定なんだろ」
「いい。今度行くから。あとで連絡するし」
「いやあのな、だからと言って女の子ほいほい連れて行くわけにいかないだろ」
「わたしだってこんなふらふらなひと放り出すわけにいかない。英語なら日常会話程度は喋れるよ。ドイツ語は少しだけ。それじゃ厳しいところ?」
「いや十分だけど、」
「じゃあ平気じゃない。お金なら少しは持ってる」
「そういう問題じゃ、」
「じゃあなにが問題なの」
じっと青年を見上げる。数秒青年はこちらと目を合わせていたが、やがてのろのろと視線を彷徨わせはじめた。
「ちゃんとこっち見て」
「や、見ろと言われても。あのな、あんたは女の子で俺は男なわけで、」
「そんなの分かってる。それともなに、なにかするわけ」
「いやしないけど」
「じゃあ問題ないじゃない。それにもう女の子って歳じゃない」
「尚更問題じゃねえか」
「子供扱いしないで、って話。大丈夫だよ、自分の責任くらい自分で取る。わたしがわたしのことを決めたの」
青年は黙った。何かを言おうとして結局言葉が見つからなかったのか黙り、中途半端に口を開いて閉じた。
「駄目って言っても勝手に着いてくから」
この一言が駄目押しになったようだった。
眉を寄せ、難し過ぎる顔をした青年がかくりとうなだれる。なんだこの無駄に強い子とかもにゃもにゃ口の中で呟かれた気がしたが、一番驚いているのは誰であろう自分だった。いや、だって。知らない男に着いて行って海外に行くとか。何考えてんだ自分。
それでも撤回する気にはなれない。何故か。どうしてだかーーー不思議と。
うめいた青年の顔をじっと見上げる。目をそらさないまま無言で手を出すと、青年は困惑を残したままその手を見、あきらめたようにため息を吐いた。がりがりと頭を掻き混ぜ、こちらを見てーーーほんの少しだけ笑って、手を取った。