セントエルモの光跡
〈 セントエルモの光跡 〉
これが、彼とわたしのすべてだ。
「―――以上です」
少女の声しか響いていなかった部屋に終止符を打ったのは、その少女以外の何者でもなかった。この物語を締めるに至って、全く相応しくないその言葉で。
少女自身もそれに気付いているのだろう―――それなのにその言葉を使った。誰に向けて。自分に向けて。傷を抉るように。・・・・・・残念ながら、その類の性格をした人間のことを自分は比較的嫌いではなかった。
「・・・・・・これが、本当に全て?」
「ええ」
「これだけが、全て?」
「ええ」
少女がうなずく。少女―――先月二十歳を迎えたばかりだという、自分にとっては娘とも歳の離れた妹とも言い辛い微妙な年頃の娘。酷い童顔をしているが今は落ち着き払い歳相応以上の凄みのようなものを醸し出している。凛としたその姿に焦がれる者も多いのだろう―――少女の語った彼然り、今自分の元に置いているあの懐かない猫のような少年然り。
随分と厄介な女に惚れたわね、と、ホテルにいるのであろう少年に胸中で語りかけた。
「では、約束を守って頂けますか。佐野 一真のデータをください」
「・・・・・・それだけで、そこまで好きになれたの?」
約束を守るのは勿論吝かではないが―――少女は自分の出した条件を既に守ったのだからこの問いを無視してもいいのだ―――自分の疑問は留まらず、それをそのまま投げかけた。別に答えなくてもいい。この少女が自分の元に辿り着いた時点で、もう自分はこの少女には敵わないのだということはわかりきっていた。
誰かのために形振り構わず全力で何でもするなんて―――そんな風に、なれるなんて。自分には出来ないことなのだから。
「どうして、好きになれたの?」
「・・・・・・どうして」
少女が首を傾げた。それは癖なのかもしれない。随分と馴染んだ仕草だった。
「『どうして』」
「そう。『どうして』? 結局あなたは―――彼に、なにも言えなくなったじゃない」
息がしやすい。自分が嘘を吐かないでいい相手。その条件を彼がクリア出来たのは、最初のほんの数日間ではないのか。
「それはあなたの望むことではなかったでしょう。・・・・・・それでも、あなたは彼を好きになった。『どうして』?」
「・・・・・・」
少女は答えない。無視されているわけではないのはわかっていた。・・・・・・言われてはじめて、考えた。少女にとってもまだ答えのあるものでは―――なかった。
「・・・・・・あなた、ドイツ語が出来るのよね」
「はい」
「ホテルに泊まった時彼がかかった病院で年配の医者にあなたは邪険にされた」
「ええ」
「・・・・・・あっちの国でも―――年配の医者はカルテを書くのにまだドイツ語を使うらしいわね」
「ええ」
「・・・・・・」
少女は薄く微笑を浮かべている。笑っているわけではない。笑ってなんか、いない。
「・・・・・・タクシー運転手の前で、あなたは号泣した」
「ええ」
「それは―――カルテを盗み見た、あとね」
少女が微笑する。笑っていない。笑ってなんかいない。
「ええ」
身体の中の全てのなにかが、絶句した。
「―――医者は全部知ってたのね。列車の事件のあと最初にかかった時、あなたがいない間に彼が全て医者に話していた」
推測だ。憶測だ。―――恐らく、事実だ。
「それを医者はカルテに書いた。彼は医者に口止めした。あなたには決して言わないように。だから医者もあなたが薬を持って来ていろいろ訊ねた時邪険に扱うしかなかった。なにも言えなかったから。それが苦しかったから」
「・・・・・・」
「医者もまさかあなたがドイツ語がわかるとは思わなかったのね。だからあなたの前でカルテを出してしまった。隠す間もなかったんでしょうね。実際、見られても理解出来るとは思わなかった」
「・・・・・・」
「あなたはあの段階で、彼が長くないのがわかっていた」
「・・・・・・」
「どうして―――彼と一緒に居続けたの」
「・・・・・・」
その時、はじめて見た。
ふわりと眼を閉じた少女が―――眼を開く。
―――気付いた時には、遅かった。
その黒い眼が、黒目がちな大きな眼が、決して逸らされることのない眼が―――綺麗なだけではない、むしろこの世界の惨さの多くをそのまま飲み下したような深い深い色の眼が―――私を、真っ直ぐに見据えた。
「―――答えません」
真っ直ぐに真っ直ぐに、少女が答えた。
「全部を聞いて、そんなこともわからないのなら―――あんたなんかに、わたしの気持ちも心もあげない」
真っ直ぐ過ぎて折れた、純粋過ぎて生きられない、そんな声で。
「・・・・・・ともりは不幸ね。好きな女にこんなに愛する男がいるなんて」
「不幸」
少女が繰り返し、くすり、と笑った。似つかわしくない、きっとこの物語の中ではあの探偵くらいにしか見せていなかったであろう表情。
「この程度で不幸になる子ではりませんよ」
「・・・・・・あなた、自分が疫病神みたいだって言ってたけど」
「ええ」
「ともりのこともその一部かしら」
「どうでもいいです」
しっかりと答えた。首は振らない。縦にも、横にも。
「仮にわたしが疫病神だったとしても、そんなこともう二度と言わない。もう絶対に躊躇ってなんかあげない。それがなんだよって笑ってやる。そのまま幸せまで這い蹲っても進んでやる。わたしを呪う奴がいたら、そいつの前でも笑ってやる。笑って手をのばして言ってやる。『付いてこられるもんなら付いて来い』って言ってやる。わたしの周りにいるひとたちは―――幸せになるために努力する、泥や血に塗れても敗けるもんかって這い蹲る、本当に高潔なひとたちだから」
「・・・・・・」
私からはじめた沈黙は―――私が動き出したことで、終わりを告げた。
立ち上がり少女に背中を向け、テーブルの上にあるスリープモードに入っていたパソコンを起動させる。データを適当なUSBに送り、けれど、それを手渡すことはしなかった。
「―――このUSBは、ともりに預けるわ」
振り返って、ディスプレイを閉じた。
「ともりがあなたに会いに行くならその時受け取ればいい。あなたに会いに行かなければあなたは一生これが手に入らない。どちみちともりにもう会えないのならこれはあなたには必要ないものだもの」
「・・・・・・そうですか」
反論が、あるかと思った。話と違うと言われるかもしれないと。
けれども少女はうなずいて立ち上がった。飛びかかるために力を込めた立ち上がり方でもない、ごく普通の動作で。
「わかりました。ではお願いします」
「・・・・・・少しも疑問に思わないの?」
呆れを通り越して、純粋な疑問になった。
「ともりが素直にあなたのところに戻ると思っているの? このままわたしの元にずっといるとは思わないの?」
「わたしさっき言いました。わたしの周りにいるひとたちは、幸せになるために努力する、泥や血に塗れても敗けるもんかって這い蹲るひとたちだって」
そう言ってから少女は少しだけ笑った。それは先ほどの笑みとは違う、恐らく少女本来のふわりとした笑みだった。
「あの子は高潔な人間だと、わたしは思いますよ」
「・・・・・・どうかしらね」
呟いた声は、そのまま沈黙を返すには悔しかったので落とした言葉だったが―――だからこそ、その薄っぺらさを露呈させたようでなお更悔しい思いをすることになった。
「それでは、失礼します」
「二度と来ないで」
「ええ、出来れば私もお会いたくないですし」
さらりと失礼なことを言って少女は頭を下げた。失礼な割に仕草は丁寧で奇妙な腹立たしさだけが蓄積してゆく。
「―――ねえ」
背中を向けた少女を呼び止めてしまったのは―――自分が最初に犯した、落ち度があったからだった。
「・・・・・・悪かったわね。今はもういないひとの話をさせて」
佐野 一真を脅すために必要なデータ―――彼の望まない過去の画像データをかつて彼を買っていた女から渡されたのは事実だったが―――それは大して対価を払わず得たものだった。だからそのデータを少女が求めてやって来た時、自分は対価無しでそれを渡すべきだったのだ。
それでも自分の中の興味と底意地の悪さがそれを阻害した。少女に告げたのだ。
恐ろしく深く、恐ろしく全てを飲み込む眼をした少女が―――なにを得て、なにを失ったのか。
あなたの一番大切なひとの話をして。
そんな条件を、少女はすんなりと飲んだのだから。
「―――いいえ。構いません」
首だけで振り返った少女は、ひんやりとそう答えて―――一瞬だけ眼を伏せ、それから自嘲気味に小さく笑った。
「・・・・・・いない、ね」
「え?」
「いいえ。・・・・・・他人の方が、すんなり状況を理解出来るんだろうなって、そう思っただけです」
失礼します。ぺこりと頭を下げて、今度こそ少女は出て行った。
「・・・・・・ああ、なるほど」
やや間を置いて―――じんわりと広がるように徐々に徐々に少女の言葉を理解する。
「あの子の中では―――まだいなくなってすら、いないのか」
その死を理解することも。
その不在を受け入れることも。
その喪失を悲しむことも。
まだ禄に出来ていないに―――違いない。
「―――どのくらいかかるのかしらね」
そしてその間、誰が隣に立つのだろう。
自分を大切にして愛してはくれるけれど、決して自分に恋してくれない少女の横に立ち続ける―――少女に恋し愛し続けられる存在が、果たしているのだろうか。
「・・・・・・いるんでしょうけど」
さあて、どうしましょうかね。
ひんやりとした白いUSBを手のひらの中で返して―――小さく、笑った。
終わりが見えたことが、幸せだった。
〈 セントエルモの光跡 アステリスクの邂逅 〉