妄想こそ美しき青春
モヨコさんが、今夜大学で男と待ち合わせをする――大学の食堂でだらだらしていた私の目の前に突然現れた友人のチャマは、いきなりそんなことを言い出した。
「……それは本当のことか?」
「本当もなにも、モヨコさん本人から聞いたんだ」
「なんだと!」
邪悪な陰謀が、秘密裏に進行しつつある。そう思った。
なぜなら私は今日、彼女と待ち合わせの約束なんてしてないからだ。
モヨコさんは、私達と同じ学年の女子大生である。品行方正、才色兼備であり、非の打ち所がない。純情の化身、慈愛の権化とも謳われる彼女に、私は一目惚れしていた。
「そう謳ってるのは君だけだろう」
チャマが毒づく。
「君はもっと現実を見るべきだ。確かにモヨコさんは見た目綺麗で可愛い人だけど、話したことも無い人を想い続けるのは不毛としか言い様がない。僕にだって話すことくらい容易なのに」
「いやいや、これから話すつもりなんだよ」
「これから、これからって言って、もう僕達二回生だぞ? その間僕が何度君のためにモヨコさんの情報を収集してきたと思っているんだ……それを全て無下にしてきたのが誰なのか、分からないわけではないだろ」
チャマは私の抗いをいとも簡単にあしらった。
確かにチャマの言うとおりだ。モヨコさんに一目惚れしてからもう一年程立つが、奥手の私は実際に行動することを畏れ、彼女の情報収集は全てチャマにまかせっきりだったのだ。結果的に、その情報は私にとって妄想の材料にしかならなかった。大きく膨らみ続けるモヨコさんの幻像に対し、霞んでいく実像。今ではモヨコさんは唯一神として私の心の真ん中に鎮座しているが、その正体を、私は全くと言っていいほど知らない。
「まあ、いいじゃないか。夜の大学で待ち合わせ――十中八九、色恋沙汰での呼び出しだ。これで君もようやく諦めて、次の恋路を探すことができる」
「そんな簡単に諦めるとか言うなよ」
「いやいや、これほど簡単な諦めも珍しいくらいだよ」
チャマはまたさらりと私の反論をはねのけ、席を立った。
「だって、まだ始まってもない恋なんだからさ」
そう言って、チャマは去っていった。的確すぎる言葉に、私は何も言えなかった。
夜の大学。
どうしても諦めきれなかった私は、とうとうこの場所まで来てしまっていた。約束の厳密な時間も場所も分からないのに、である。何をしに来たのだ自分はと、今更己を責め立てたくなった。
かといって帰る踏ん切りもつかなかった私は、未練がましく大学のキャンパスを右往左往した。
一体彼女は、誰に呼び出されたのだろうか。美しい星々が夜空を彩り、その主役たる月が淡く優しく照らし出すキャンパスというステージ。その片隅で彼女はひたすら誰かを待ち続けている。今宵の約束のために新調した純白のドレス。薄く化粧した顔。その頬が少し赤いのは化粧のせいだけではなかろう。何故なら彼女は深窓の令嬢であり、男との待ち合わせなど初めてなのだ。その初々しさ……その儚さ……月明かりが浮かび上がらせる彼女の像は、数多の女性と一線を画す、そう、まさに女神。
そんな彼女に、どこの馬の骨とも知れない輩が、己の欲望を惜しげもなく晒しながら喰らいかかるのを想像して身の毛がよだった。その貪欲さ、醜悪さ……そんな世界が交わることは許されない。神々しい彼女にふさわしいのは、彼女を理解し、想い、そして崇める、そんな人間……。そう、まさしく私である。
運命の邂逅を果たす彼女と私の間には瞬く間に愛が芽生えるだろう。それは自然の摂理であり、法則。何人たりともそれを止めることは敵わない。私は彼女の手を取り、さりげなく抱き寄せ、キスをする。そして愛は永遠のものとなる……。
という筋書きに思いを馳せていた私の耳に、軽やかなワルツが流れてきた。妄想は中断された。
学舎の方に目をやると、サークル棟、社交ダンスサークルの部屋の窓が開いており、緑のカーテンがゆらゆら揺れていた。どうやら音楽はそこから漏れているらしい。
そういえば、邪な恋に溺れた男女が行き着く場所として、夜な夜な開かれるダンスパーティがあると聞いた事がある。そこでは一途な恋などという紳士的思考は路上の石ころのごとく扱われ、男と女は誰彼かまわず踊り狂うと専らの噂である。勿論紳士である私が望むのはプラトニックな恋であり、彼女も同じだろう。あんな所に縁などあるわけもない。
と、正門の方から足音が聞こえた。誰かが来るとは思ってもおらず、驚いて振り返った。
「諦めろっていったのに……」
それは真っ白なタキシード服を着たチャマだった。頭にはシルクハットまで被っている。普段はラフな格好が多いチャマなのでそのギャップは激しく、夜の大学という場所も相まって相当な奇妙さを覚えた。
「チャマ、なんだその格好は……というかなんでここにいるんだ」
「何故ここにいるか……君なら、わかるだろ」
よくみれば、チャマのタキシードのマントの後ろに隠れて、もう一人誰かがいた。その人物がゆっくりと姿を現す。
「モヨコ……さん?」
それは新調したと思われるドレスを身に纏った、モヨコさんだった。私の想像とは違い、所々にギラギラ光るものを散りばめた、漆黒のドレスである。
何故彼女がここにいる?
「あら、はじめまして。あなたのことはチャマ君から聞いているわ」
そう言いながら、モヨコさんはいつもやっているかのような自然さで、チャマの右腕に自分の腕を絡めた。
その行動に驚きを隠せなかった。だって、私のモヨコさんは人前でそんなはしたないことをしない。
「えーっと……待て、どういうことなんだ」
「いや……分かった。全て僕から話す」
歯切れが悪そうに、チャマが言う。こんなチャマは初めてだ。
「モヨコと待ち合わせをしていたのは僕だ。……そしてもう分かっていると思うが、僕達は付き合っている」
付き合う。付き合う。付き合う?
「僕は君の恋路のために、これまで色々な事をやってきた。モヨコとの接触もその一環だった。だったんだが……」
そこでチャマは言葉に詰まる。
「あたし達、話しているうちに妙に気が合っちゃったの。あなたには気の毒な話なんだけど……でも、あなたもあなたよ。あたしと話したことすらないじゃない。チャマ君に先を越されても文句言えないわ」
代わりにとばかりに、モヨコさんがしゃべった。
いや、おかしい。私のモヨコさんは私以外と交際したりしないし、そんなことを暴露したりしない。
こいつ、モヨコさんの皮を被った何かか。
「おい、そんなストレートに言うなよ」
「でも、これくらい言わないと分かってもらえないわよ」
二人が仲良さそうにいちゃいちゃしている。そんな二人を見ても、私には怒りも悲しみもわいてこなかった。
あれは私の知っているモヨコさんではない。モヨコさんは人前で平然と腕を絡めたり他の男と浮気をしたりそんな事実をずけずけとしゃべったり私以外の人といちゃいちゃしたりすることなどないのだ。だってそうだろう。品行方正、才色兼備、非の打ち所はなく、純情の化身、慈愛の権化と謳われ、深窓の令嬢のごとき初々しさと儚さを兼ねそろえた女神のような存在である彼女が、そんなことをするわけがないのだ。
「……どういう形であれ、片思いの相手を奪ったことになる。すまない」
チャマがいきなり謝ってきた。
何故謝る? 私はモヨコさんが好きなのであって、モヨコさんを模した誰かが好きなわけではない。
「いや、私は全く気にしていない。チャマがモヨコさんっぽい誰かと付き合うことなんて、全く問題ない」
私は機械的に、淡々と言った。
「あたしっぽい誰かって何? ……まあ、いいわ。この服装見れば分かると思うけど、あたし達ダンスパーティに出席しに来たのよ。チャマ君、早くいきましょ」
モヨコさんに似た人間に、ぐいぐいと腕を引っ張られるチャマ。
「……君はそれでいいのか」
「いいもなにも、チャマが言ったんだぞ。私の恋は始まってなどいない。始まってないものが終わることなんてない」
「……分かった。君が気にしないというのなら、僕はそれを信じるよ」
二人は学舎に消えていった。
……これでいいのだ。チャマがモヨコさん似の誰かと付き合っている。それだけじゃないか。私に関係するところなんて一つもない。むしろチャマを祝ってやるべきじゃなかったか。そうだ、次会ったら祝いの言葉の一つくらい言ってやろう。
そう想いながら学舎を眺めていると、突然景色が滲んだ。
目にゴミでも入ったかと思って拭うと、それは涙だった。
「あれ、なんで涙が……」
続けてうう、と呻き声が出た。次々と溢れる涙と声。止まらない。
「うぅう……なんなんだ、これ……」
いや、本当は分かっている。
私は悲しいのだ。怒っているのだ。
ずっと憧れ続けたモヨコさんの像が、崩れていった。
そして、それでもモヨコさんをとられた事が、悔しかった。
その感情がどれだけ歪で理解されないものであろうと、止められない。
架空への恋。それは当然、叶わないものだったのだ。
邪な恋に溺れていたのはダンスパーティに赴く彼ら彼女らではなく、まさに私だった。
これが、失恋。
「モヨコさん……」
私の涙声は虚しく月夜に吸い込まれていった。