ヴァレリアの集落
ヴァレリアは険しく細い道の先頭を足早に歩きながら息も切らしてはない。彼女はロユラスを先導しつつ、ロユラスの身の上話を聞き、振り返って言った。
【なるほど、お母さんが私たちと同じ部族という事ね。そんな事情なら、その言葉遣いもしょうがないか】
ロユラスがやや苛立ちを込めて要求した。
【さっきから、貴女たちが言ってる言葉使いって何のことよ。ちゃんと説明してちょうだい】
マカリオスが笑いを隠しきれずに吹き出した。笑ってはいけないと思うのだが、この男にその滑稽さをどう説明してやればいいのだろう。今の母と息子の様子には、初対面の者に対する不信感はなく、昔からの長いつきあいのように親しさを感じさせる。命を救われたという事実以上に、ロユラスが流暢に話す言葉で仲間だと確信したのである。
三人は山の斜面に刻まれた細い道で夜明け迎えた。木々の枝に隠れるような細い道や険しい崖が、ヴァレリアたちの集落をフローイ兵から守っているのである。ただ、水場から離れ、飲み水の確保に苦労するに違いない。
ロユラスは尋ねた。
【飲み水はどうしているの?】
【川まで汲みに行くのよ】
【不便でしょう?】
【ソウソス川の上流に住んでるハリラオスやディミトリスの集落もあるけど、水場があると言うことは獣も集まる。獣が集まれば狼も集まってくるという事よ】
【水場が近いと危険も近いと言うことね】
ロユラスはそう答えながら考えた。
(なるほど……)
逃亡奴隷たちも一つにまとまっているわけではない。ヴァレリアのように山に住む者も居れば、川辺に隠れ住む者もいるということだった。いくつかのグループに分かれて行動し、時に互いに争うことも多いらしい。しかし、彼らは共通して、場所を変えながら住んでいるという。兵士たちから身を隠すためてある。ヴァレリアたちは冬は何箇所かの鉱山跡の洞窟に住み、時にテントを張って暮らすという。
ロユラスは関所で観た残忍な光景を思い出した。
【関所で焼き殺されていたのも、そんな仲間なのかしら】
首をかしげたロユラスに、マカリオスが答えた。
【アレはクセノフォンの仲間だ。俺たちとは仲が悪い】
【クセノフォン?】
【街道の西の山にいる連中で、水くみに山を下りた私たちを見つけて襲ってきたのよ】
ヴァレリアの説明に、ロユラスはため息をつくように微笑んだ。彼はギリシャ人奴隷たちと会うために街道や地形を記憶するほどの時間をかけて往来し、希望を打ち壊される思いまでした。しかし、彼らは意外に身近なところに、しかも小さな集団に分かれてあちこちにいたと言うことである。
【私は貴方たちと会うために苦労して探していたのよ。それなのにフローイ兵はどうして貴方たちを捕らえることができたの?】
【普段は気をつけているのに、言い争いに夢中になっているうちに、気づかないうちフローイ兵に囲まれて逃げ場がなくて、捕まってしまう有様だったの】
ヴァレリアの言葉にロユラスは肩をすくめて見せた。彼がルージで聞いていた話では、ギリシャの小規模な部族の者たちは力を合わせ、侵略者としてのアトランティスの大軍をギリシャの地からたたき出したという。しかし、母子の話しからその団結心を感じ取ることができない。そもそも、アテナイを中心とするギリシャ諸部族の軍は、戦勝者として聖都に駐留しながら、奴隷としてアトランティスにいるギリシャ人たちを解放して帰国させようとはしなかった。ロユラスがこの人々を理解するためにはまだいくつかの経験を積まねばならないらしい。
マカリオスが話題を変え、好奇心に満ちた質問をした。
【ルージというのは、どんな所だい?】
【まぁ、海のきれいな所ね。私はアワガン村で漁師をしているの】
【アワガン村って?】
【ルージの都バースのから半日の所。私はそこで生まれたのよ】
ヴァレリアは二人を先導してその前方を歩きながら、ロユラスの言葉の不自然さも、彼の顔を眺めず聞いているだけなら笑わずにすむことに気づいた。疑り深いほど慎重なヴァレリアが、この男を信用し受け入れ始めているということだろう。そして、この山中で育って海を見たことのないマカリオスは、見たことのない広い景色に憧れを広げているようだった。
ヴァレリアが何を目印に歩いているのか、ロユラスには理解できなかったが、細く曲がりくねったルートを辿りつつ、彼らは目的地に到着した。母と息子がこの奥深い山の中で、家族の場所を探し当てたのは、ロユラスがまだ気づかない目印が山の木々に刻んであるのかも知れない。
ヴァレリアとマカリオス母子がロユラスを案内したのは、街道から小さな尾根を一つ隔てた山の中腹である。ここで、ロユラスはヴァレリアがこの逃亡奴隷たちの集団のリーダーの妻だと知った。迎えに出た者たちの先頭にいた男がヴァレリアから話を聞き、ロユラスに礼を述べたのである。
【女房と息子の命を救ってくれたこと感謝する】
【気にしないで。私も貴方たちと会いたいと思っていたところだから】
ロユラスはそんな返事をしながら周囲を眺めた。木々の合間のあちこちにテントが見えた。短い会話の間にその中から、一人、二人と姿を見せ始め、やがてロユラスはこの集落の人々に厚く取り囲まれて、彼らの不安そうな視線を浴びていた。見回せばその数は老若男女含めて百人に満たない。
ヴァレリアがロユラスと出会ったいきさつを語り聞かせ、ロユラスの来訪目的も語ったが、人々が部外者のロユラスに注ぐ視線に籠もる不安は消えなかった。
ロユラスは彼らに自分の出自を語らねばならない。ただ、ルージ王リダルの息子だと言うことは隠さねばならないと考えている。
【私にも話をさせてちょうだい。私の母は貴方たちと同じ部族の者なのよ】
ロユラスが語り始めた言葉に、人々は視線に籠もった不安な感情を、奇異な者を眺める驚きに変えた。昨日、ヴァレリアとマカリオスがロユラスに示した感情の変化だった。ただ、ロユラスは話し続けなければならない。
【私の母は哀しい思い出を封じて故郷のことを語ってくれないの。でも、私は知りたい。心から。母の故郷のこと。母の家族のこと】
ロユラスの話が進むにつれて、口元に手を当てて笑顔を隠し、俯いてロユラスとの視線を避け、内に押さえ込んだ滑稽さの感情を涙に変えて溢れさせる者まで居た。そんな彼らの様子に、ロユラス自身も自分の言葉遣いのおかしさに気づいたが、こればかりはどうしようもなく言葉を継いだ。
【お願いよ、私に貴方たちの故郷のことを教えてちょうだい】
ただし、周囲の笑いを抑える顔に、ロユラスはもどかしさし腹立たしさのみ高まり、ついにはアトランティスの言葉を変えた。
「ええいっ、止めた。もうお前たちの言葉は話さん!」
ロユラスがそう言い放った瞬間が、彼らが笑いを抑える限界でもあったらしい。ロユラスの周囲は明るい笑い声に包まれた。彼らの透き通った笑顔と、朗らかな笑い声は、ロユラスに対する疑いを解き、仲間として受け入れたと言うことだろう。
腹立たしさはあっても、内心はロユラス自身が驚いていた。同じ言葉を話すと言うことが、こんなにも人と人を信頼感で結ぶものか。
間もなく、仲間を救ってくれた来訪者をもてなす宴が始まり、ロユラスはその心づくしの中央にいた。




