解放
ロユラスは無口で沈黙を苦にしない男だが、牛使いは不安を払う為なのか、焚き火を前に勇ましく話し続けていた。同業者とのトラブルの話、酒場のばくちで一儲けした話、どこそこの売春宿で買った女の話。檻の中の囚人が口を挟もうとすると、これから薪にする木の枝で哀れな囚人を突き回して黙らせた。
ロユラスは牛使いの話に耳を傾ける振りをしながらも、周囲の地形を眺めていた。アトランティス各地を巡りながら、こうやって各地の地形や文物を眺めて好奇心を満たすのがロユラスの癖である。
ソウソス川はこの辺りの渓谷を縫って流れる川で、幾つもの支流が流れ込んで水量は豊かだが、川底は深く川幅も広いために流れは穏やかである。木々の豊かな緑の中で鳥が囀り土地と生き物が調和して美しい光景を作りだしていた。ただ、文句を付けるとすれば渓谷に日が遮られて日暮れが早いことと、広い河原に薪となる枯れ枝が少ないことか。
ロユラスは立ち上がって、袋に入っていた干しブドウを無造作に檻の中の二人に投げ与えた。そして、焚き火には背を向け闇に向けて歩き出した。
「旦那。どこへ?」
牛使いの問いにロユラスは気さくに答えた。
「危険な場所だ。火を絶やすわけにはいかんだろ。待っていろ。俺が薪を探してくるよ」
ロユラスは薪の中から松明になりそうな木を一本取り、その明かりを頼りに街道を北へと戻った。宿営地には牛使いと囚人が残された。空腹を覚えていた檻の中の囚人は、与えられた食事にむしゃぶりついたが、女はそれが好意かどうか見極めるように、ロユラスの背を注意深く眺めていた。
ロユラスは宿営地の焚き火の明かりが見えなくところまで来ると、手にした明かりも地に捨てて、体をかがめて藪に飛び込んで身を隠しながら藪の中を駆け足で戻った。
そんなロユラスの動きも知らず、一人になった牛使いの男は不安を紛らわすためか、檻の中の囚人に声を掛けた。
「お前たちも、町に着けば焼かれちまう身だ。今の内に景色でも楽しんでおくんだな」
「俺たちの命の心配をする前に、自分の心配をするんだな」
「何だと」
「もうすぐ仲間が俺たちを助けに来るぞ。お前は首を切られて頭だけになって闇の中を飛び回るんだな。森の悪霊の仲間入りだ」
「この小僧がっ」
牛使いは棒きれで檻の中の若者を、怒りを込めて突き回したが、逆にその棒きれを若者に奪われる有様だった。牛使いは恐ろしげな想像に怯えてあわてふためいているのである。
この宿営地に来るまでの道のりで、ロユラスはさんざん牛使いの不安を煽っていた。その効果がよく分かる様子だった。あの若者の言葉も、この場を盛り上げる言葉として申し分ない。
ロユラスは姿は見せぬまま、闇の中で木々の枝葉をざわめかせ、短く奇声を上げて、音のみで存在を露わにした。河原の焚き火まで八分の一ゲリア(約100メートル)はあるが、周囲の木陰を移動しつつ、それを繰り返せば、焚き火の側にいる男は、闇の中で大勢の人間に囲まれているかのような印象を抱くだろう。
ロユラスは牛使いの不安が恐怖に替わりかけている様子を確認すると、さきほど灯りを捨てた位置まで足音をさせずに駆け戻り始めた。もちろん、静寂は戻ったが、突然に訪れた静寂は男の心にしみこんで恐怖を煽るだろうと考えていた。ロユラスは男の様子を想像して、自分の無邪気な遊びが気に入ったように笑っていた。
ややあって、ロユラスは一息ついたかと思うと、大声を上げて足音も高らかに焚き火を目指して駆けた。
「おぉーい。逃げろぉ!」
焚き火が見えてる距離に接近し、続く言葉を叫んだ。
「山賊共が襲ってきたぁ」
焚き火の傍らの牛使いが見えたために、更に強い警告を発した。
「五十人はいる。俺たちは殺されるぞ。逃げろ。今すぐだっ」
言いしれぬ不安の中にいた牛使いは、その言葉で恐怖と混乱の極限を超えた。牛使いは背後を振り返る余裕もなく街道を南へと逃げ去った。あの様子を見れば、息が続く限り走り続けるだろう。
ロユラスが息を整えながら牛使いの様子を評した。
「いやはや、牛使いが雇い主を置いて逃げちまいやがった」
事情が飲み込めず、檻の中の母子は顔を見合わせて首を傾げていた。
「さて、」
ロユラスはそんな言葉を吐いて呼吸を整えた、全速力で走ったため彼の息も乱れている。ロユラスは牛使いが残していったナイフを手にして檻に近づいた。ロユラスが檻を作り上げている丸太を結びつける縄をいくつか切り、中の囚人が出られるほどの隙間が空いた。若者はその隙を見逃さず、ロユラスには礼も言わずに、隙間からするりと抜け出した。母親の方を出すためには丸太をもう一本外さねばなるまい。ロユラスがそう判断して縄に手を伸ばした時のことである。
先に檻を抜け出した若者はさきほど牛使いから奪った棒を武器代わりに手にしていた。ロユラスは荒い呼吸と牛使いを追っ払う企みが成功した面白さに酔っていたのかも知れない。若者が背後で棒を振り上げるのに気づくのが遅れた。ロユラスは振り下ろされる棒を避けきれず痛みに呻いて肩を押さえた。
【母さん、今のうちだ。逃げよう】
若者はそう言って母親を檻から救い出した。二人がロユラスに背を向けて掛だそうとした時、河原にロユラスの声が響き渡った。
【何をするのさ。痛いじゃないのよ!】
母子はその声に驚いて足を止めて振り返った。ロユラスは無意識のうちに、母との会話で使っているギリシャ語で文句を発していたのである。
流ちょうな話し方で、母子の部族が話す言葉の訛りまで自然だった。ただ、目の前のたくましい男が話す言葉として女性的で、その容姿とひどく違和感がある。
【お前、何者?】
母親はロユラスに短く問い、ロユラスは返事の替わりに文句を言った。
【あなたたちから先に名乗ったらどうなの。それが礼儀というものだわ】
怒りを感じる声音に反して、おしとやかな女性のような仕草と言葉だった。女は違和感にあっけにとられるように答えた。
【私はヴァレリア。これは息子のマカリオス】
【私はロユラスよ。命の恩人の名はちゃんと覚えておきなさいね】
ロユラスの立場で見れば、彼の言葉遣いはやむを得ない。普通は、両親はもちろん周囲の人々との交流の中で、自然な言葉使いを覚えてゆく。ロユラスの会話の相手は母親のみで、その母は実に女性らしい思いやりと優しさを持った人物だったし、そういう言葉遣いをする。ロユラスはそれを真似るように学んでいたのである。今のロユラス自身は自分の言葉遣いに違和感を感じてはいない。ヴァレリアがいきさつを尋ねた。
【どうして、私たちを逃がしてくれるの?】
【逃がしてあげたお礼に、あなたたちの仲間に会わせてもらえないかしら】
仲間に会わせろというのは、彼らが隠している居場所に連れて行ってくれと言うことで彼らの身に危険が及ぶこともありえる。
【どうして会いたいんだい?】
【私の母について知りたいのよ】
そんなロユラスの言葉ではなく、真摯な目の表情に、ヴァレリアは彼の思いを読み取った。信用して良い人物らしい。




