都パトローサのエリュティア
シュレーブ国の王都。その郊外にドリクスの館があった。真理の女神の弟で創造の神の神殿に仕える神官の一人だが、王の一人娘エリュティアの教師という役割を持っていて、この館が与えられている。その建物は簡素だが、広い庭園に囲まれた美しい館である。庭園はベンチが一つ、北向きに置かれて、その背後に格子に組んだ壁と屋根がある。この時期はその格子にブドウの蔓が茂って直射日光を遮って木陰を作っている。庭園に咲き乱れる花々に蝶が舞い、樹木にはそこを巣にする小鳥たちがさえずっていた。
ドリクスはエリュティアをこの庭園に招いていた。ここのところ憂鬱で落ち着きのない様子が絶えない生徒のためである。エリュティアはそんな庭園を散策していた。ドリクスは彼女を一人でそっとして置いてやりたいと考えたが、乳母のルスララだけは彼女に尽きっきりだった。
乳母ルスララが言った。
「血なまぐさい戦のことなど、殿方にお任せなさいませ。エリュティア様はただ、真理の女神が私たちを守るように、このシュレーブ国の民を見守っていればいいのですよ」
「そうなのでしょうか」
この瞬間、エリュティアが考えていたのは戦のことではなかった。聖都で彼女が嫁ぐべき相手と引き合わされたアトラスのことである。彼女は小さな守り袋の中の真珠を握った。その感触が困惑する心を静めてくれるのである。袋をあけて眺めれば真珠特有の輝きはなくなっている。アクセサリーとして身につけた後、汗や皮脂を丁寧に拭き取って手入れをして保管せねば、輝きを失ってしまうのである。困惑ばかりが増えるこの世界で、彼女は心の平穏を保つために、肌身離さず持っていたということだった。
ただし、そのアトラスも、今は彼女が良く理解できない理由で敵国の王子となった。その名を呟くことが周囲の人々の思いをかき乱すことに気づいた彼女は、今はアトラスの名を口にすることはなくなった。
「いかがなさいました?」
ルスララはエリュティアの微妙な表情の変化に気づいてそんな声を掛けた。不満や怒りを見せることが少ない従順な少女だが、この時のエリュティアは、足下の地面の一画を見つめ、やや眉を顰めて哀しげな顔をしたのである。
この庭園の植物は、慣れた園丁が丁寧に世話をしているが、時折、可憐な花を付けた草花が雑草と呼ばれて、観賞用植物の生育に邪魔にならないように、引き抜かれ捨てられている。
エリュティアが見つけたのは、そうやって片隅に抜き捨てられた植物である。エリュティアがしゃがみ込み、うち捨てられた草花を両手ですくい取ったばかりではなく、大切に眺めるように胸に抱いたため、土がこぼれてドレスの胸元を汚した。そんな彼女の姿にルスララが悲鳴を上げるように言った。
「姫様。お手が汚れます。お捨てなさいませ」
エリュティアは、その言葉が理解できぬという風にちらりとルスララの表情を伺ったが、きっぱりと言い切った。
「私は、この草花を育てたいのです」
「他に美しい花がいくらでもございましょう。それ、そこのサーフェの花などいかがです。ドリクス様にお願いして一株頂いて参りましょう」
「私はこちらの花が良いのです」
こういう場合のエリュティアは頑固なほど意固地になる。それを知っているルスララは、ため息をついて彼女に妥協した。
「では、ここでお待ち下さいませ。その花を生ける容器を何か探して参りましょう」
ルスララは足早に立ち去った。容器といったが、彼女はエリュティアが汚してしまった衣類の着替え、頬や手の汚れを洗う水や布の手配をせねばならぬと考えていた。
この時、エリュティアがクスリと笑ったのは、ルスララの良く気がつく様子を愛でたのか、胸に抱いた草花の束から小さな赤いテントウムシがはい出してきたのに気づいたのかどちらだろう。素直な少女は、乳母の言いつけ通りそこで待ち続けた。
「通らせてもらうぞ!!」
苛立ちの籠もった怒鳴り声が響いてきたのはそんな時である。




