戦いの後
乱戦の中、フローイ国王ボルススは戦の引き際を考え始めていた。ネルゴーラ川の方向を眺めれば、シュレーブ王家の旗が揺らめいて川辺へと移動する様子が見て取れる。明らかに押されているばかりではなく、あの様子なら包囲されるsと言う最悪の事態も予想された。
シュレーブ軍が思いもかけず早く崩れたばかりではなく、包囲に近い形で壊滅に近い被害を受けるとなれば、全滅と共にシュレーブ軍と戦っている敵はこちらに向かってくる。そうすれば、フローイ軍はいよいよ不利になる。
(兵を退くなら早い内に)
王ボルススはこの戦況の中でそんなことを決断し始めていた。戦に負けたとは考えていない。兵を温存して、もう一度、戦う機会をうかがうのみである。この王はそういうしぶとさを持っていた。
この時、王ボルススには思いもかけず、ルージ軍はやや兵を下げた。ルージ軍の陣から響いた長く響く角笛の響きをきっかけに、今までぶつかり合うように剣を交わしていたルージ軍がやや退き始めたのである。ただ、その兵士たちの目を見ればまだ戦意は失ってはいない。
そのため、戦に小康状態が訪れた。ボルススはまだ孫のグライスが、ルージ軍のアトラスと戦って負傷したこと、相手のアトラスも陣に後送されたことを知らなかった。
王ボルススが気の迷いかと考えた小康状態が続いた。
(理由は分からぬが、こちらも兵を退く好機だろう)
王ボルススは命じた。
「我が緑旗を回せ。退却の角笛を吹け」
王旗を回して振るのは全軍退却の合図である。もし、敵が付け込んで突撃してくれば、味方は総崩れにならざるを得ない危険な状況である。しかし、不思議なことにルージ軍は攻撃に転じることはなかったばかりか、シュレーブ軍との戦いに勝利したヴェスター軍まで、フローイ軍に向かっていたその勢いと方向をルージ軍に寄り添うように転じた。
両陣営は味方の負傷兵を支えつつ兵を下げ、互いに先ほどまでの怒りや憎しみを維持したまま距離を置いて睨み合った。戦場に静けさが戻った。
やがて日没を迎えて、互いの姿が闇に溶け込んで見えなくなるにつれて、その気配まで戦場から途絶えた。王ボルススはこの戦場から兵を後退させたのである。敵が追ってくる気配はなかった。
王ボルススは、軍をネルギエの村の郊外の陣まで退却させた。今夜はここで兵を整えるつもりである。ルージ軍と戦い、兵は傷つき、討たれた有能な将も何人もいる。兵を失った将に新たな兵を与え、将を失った兵どもに新たな指揮官を与えてやらねば、次の戦ができないのである。そして、本格的に退却するなら、敵の追撃を防ぎ、捨て石になる殿の部隊も決めておかねばならない。
間もなく、王ボルススは、遅れて帰陣した孫が負傷したことを知った。副官ロットラスに支えられながらも、グライスは自分の足で歩いて王の天幕に姿を見せたのである。
「おおっ、グライスよ。大事無いか?」
「肋を何本か。しかし、腕や足は失っておりません。まだ戦えます」
グライスはそう言ったが、言葉を発する合間にも、折れた肋骨がもたらす激痛に口元を歪めていた。祖父としてはゆっくりと休養せよと言ってやりたいところだが、現在のどう変わるか分からない状況を考えれば、そうも言えない。王ボルススはそんな立場を首を傾げて言った。
「しかし、不思議といえば、奴らが兵を退き、追撃してこぬ事」
王ボルススの言葉に、ロットラスが進み出て言った。
「グライス様が、アトラス殿と剣を交わされました」
「まことか?」
グライスの顔を伺う王ボルススに、わき腹の痛みに顔をしかめたのみで言葉を返すことができない。アトラスと戦って得られたものは、このわき腹の痛みのみで、勝利の感覚はなかった。ロットラスが言葉を続けた。
「私は我が兵の槍がアトラス殿の胸に刺さり、その穂先が背を貫くのを見ました。あれなら生きてはおらぬでしょう」
負傷したグライスを救出し、乱戦の中を抜けて脱出するためにじっくりと確認したわけではない。結論を避けて口にしなかったが、敵が優勢なまま兵を退いたという事実を照らし合わせれば、アトラスが死んだというのも合点がいく。王ボルススは頷いた。
「死んだか。それで奴らもアトラスの遺体とともに兵を退いたと言うことか」
「左様でしょう」
王ボルススは少し考えて、静かに言った。
「あの若造は、勇敢さでやつらの勝利を生み、自らの死でわれらに勝利を与えて戦の舞台を閉じおった」
フローイ軍に手痛い被害を与えたのみならず、シュレーブ軍を包囲して殲滅するという大勝利は、アトラスが手勢を率いて、シュレーブ・フローイ連合軍の戦列を突破したことだというのである。ただ、その勇敢さの故に、フローイ軍にその命を奪われ、フローイ軍にも敵の王子を討ち取るという勝利をもたらした。
「グライスよ、良くやった。われらの勝利は、そなたがもたらした」
王ボルススはそう評価し、グライスの功績を認められたロットラスはうなづいたが、グライス自身は納得していない。アトラスが振るった盾の衝撃を受けて地に転がり、アトラスが振り降ろす剣を受けるために、下から振り上げた剣が、偶然にアトラスの左腕を斬り飛ばした感触は記憶にあったが、わき腹の激痛や乱戦の中の混乱で、アトラスに止めを刺し勝利した感覚はない。よくやったと言われても、喜ぶ気にはなれない。
ただ、姉のリーミルの顔がちらりとグライスの脳裏をよぎった。姉が愛した者の死に、自分が荷担したという事かも知れないが、今のグライスにはそんな心を整理する余裕はない。




