アトラス突撃
「さて、まだ、やや時もありましょう」
サレノスがそう言ったのは、あのシュレーブ軍の前進速度なら、前衛の兵士が槍や剣を交わすまで、少し間があるというのである。右翼のネルゴーラ川から陣を広げるヴェスター軍とは、敵を待ち、これを討つという作戦とも言えぬ簡単な約束を交わしている。ヴェスター軍はその約束を守り、距離を縮めてくるシュレーブ軍に対して兵を動かしていない。
戦況を眺めるアトラスに、サレノスは問うた。
「されば、我らはいかがしたものか」
「あそこではないのか」
アトラスは彼のほぼ正面、前進し続けるシュレーブ軍と、ようやく前進を開始したフローイ軍の間隙を指さした。もともと横一文字に陣を敷いているように見えるフローイ軍とシュレーブ軍の間にはやや間隔があり、シュレーブ軍が単独で前進を始めたため、フローイ軍もその隙間を埋めることができず、両軍の間隔が広がっているのである。
「確かに」
サレノスはアトラスを眺めながら頷いたのは、アトラスが示す方向の正しさだけではなかった。アトラスの姿に心の中で若き日の王リダルの姿を思い起こしたからである。アトラスが迷わず指摘した箇所に間違いはない。攻勢に出るきっかけをつかむとすれば、あの隙間である。先の砦を奪った戦いの迷いのなさといい、今示した戦術眼といい、アトラスは王子の肩書きをまとっただけの若者ではなかった。本人に自覚があるかどうかは不明だが、彼はその才能に牙狼王リダルの血を引いていた。
両陣営の距離は、もはや弓や投石器を使う距離ではなかった。弓など手にしていれば、武器を剣に持ち換える前に、剣や槍を構えた敵が突撃してくるだろうという距離である。接近する敵を待ち受けるルージ・ヴェスター軍の兵士たちは、緊張で汗ばんだ掌で剣を握り直した。渇いた喉を湿らそうとするように唾を飲み込む動作をしたが、興奮で唾も出ず、ごくりと喉を鳴らしただけである。
やがて、敵陣から長く響く角笛の音が響いた。突撃せよとの合図である。シュレーブ軍前衛部隊を率いる指揮官たちは、一斉に兵を叱咤して駆け足させた、敵味方両軍は急速に距離を縮めた。敵を威嚇する怒号が、敵味方が打ち合わせる剣の響きに変わった。アトラスが見回してみれば、東西に長く延びた戦列のいたる所で兵士が剣を交わしていた。しかし、アトラスとサレノスはそのやや後方にいて戦いを見守るようにその位置を動いていない。
前衛の兵士たちの一進一退の状況がどれほど続いただろう。勢いづき敵を圧して突出した兵士たちがいたかと思うと、逆に押し返された。目の前の敵兵をようやく倒し、前進しようとした兵の目の前に、倒した敵の後方から現れた。新たな敵に打ち倒されるという具合で、兵は傷つき、疲労しながら、じりじりとその数を減らしていた。
そんな兵士たちを黙って眺めているのに耐えられぬというふうに、アトラスがサレノスに怒鳴った。
「まだかっ」
早く戦いに加わりたいというのである。しかし、サレノスは何度繰り返したのか分からぬ返事を、この時も返した。
「まだ、機は熟しませぬ」
サレノスの目から見れば、敵味方の兵士は一進一退を繰り返しているようだが、よく見れば戦意に勝るルージ・ヴェスター軍の方がじりじりと敵を圧している。この状況が続けば、敵兵の士気は衰え、敵の戦列は崩れて、味方は勝利を収めることができるだろう。
ただし、兵数に勝る敵は、いずれルージ軍の左翼の側面や後方を脅かす状況になるだろう。左翼を守るアゴースは非常に不利な戦いを強いられざるを得ない。もし、アゴースの部隊が崩れれば、ルージ軍の全部隊は後方を脅かされて瓦解する。それを防ぐため、全軍の状況を眺めつつ、左翼が不利な状況になった時に、予備部隊を投入する。サレノスとアトラスの直卒の部隊は、そう言う役割を担っていたのである。
アトラスは父の歓心を得るための人格を演じるという鬱積した人生を歩んでいた。アトラス自身の戦いを前に、父王リダルが亡くなったが、それはアトラスの心を解放することなく、父に代わってルージ国を導かねばならないという重荷を背負っただけである。周囲が常に比較する父親との対比で、功績や才覚が父に遠く及ばぬという評価されている自覚もあった。なにより、戦いを前にいくつも重ねた軍議の席上で、並み居る諸将の進言に頷くのみで、彼自身の心は閉じたままだった。その無力感が、乱れ狂う心を圧縮しアトラスの心は爆発寸前だった。サレノスは熟練の武人だが、乱れるアトラスの心を読み切れてはいない。
この瞬間、アトラスの心が爆発するように、彼の意図が戦場に放たれた。突如、アトラスは剣を抜き、天を刺し貫く勢いで叫んだ。
「ルージの勇者ども、我らが王リダルに代わって、奴らに審判の神の鉄槌を!」
その叫びに、兵士が呼応する声を上げる間もなく、アトラスは前面の敵に向けて駆けだした。アトラスの直卒の兵士たちもその背を追わざるを得ない。この場で、行き足のついた兵士を押しとどめ、元の位置に据えることは、歴戦のサレノスでさえできない。
あの勢いでは、アトラスは手勢を率いて敵陣深く突入し危険にさらされる可能性がある。サレノスはちらりと左翼に目をやった。歴戦のアゴースなら、アトラスを引き戻す間、左翼を支えてくれるだろう。サレノスはそう判断して部隊に命じた。
「我らの王子とともに敵を殲滅せよっ」




