シュレーブ軍動く
敵味方の間隔は、息を大きく吸い込んで駆ければ、その息が尽きる前に敵陣に着くという距離である。この間隔が少しでも狭まれば、弓や投石機の有効射程に入る。そして、弓や投石機などを構えていれば、二射目を射る前に、剣を振りかざして駆け足で迫ってきた敵の突入を許して、弓を剣に持ち換える間もなく大きな被害を被る。そんな距離だった。
両軍の前衛は、そんな距離で向き合って、槍の石突きで地をつき、剣と盾を打ち合わせ、鬨の声をあげて相手を威嚇し合っていた。頭上の太陽は中天を過ぎていた。早朝に始まるかと考えられていた戦闘は、敵味方がにらみ合ったまま動かず、疲労の中に士気を磨り減らすように時が過ぎていたのである。
敵味方が南北に分かれて、それぞれがネルゴーラ川から東西へ長く陣を伸ばしている。フローイ軍はその長く伸びた陣の中央から右側を担当し、その前衛部隊の後方に、フローイ国王ボルススが五百ばかりの直卒の兵を率いて布陣していた。王ボルススは愉快そうに手を打って叫んだ。
「全く、戦というのは、これだから面白いわい」
フローイ国王ボルススの本音であり、同時に実務的な目的も持っている。王が目の前の光景を笑い飛ばす余裕を見せれば、緊張の極致にある兵士たちも戦意を維持するだろう。
この状況を作りだしているのは、シュレーブ軍である。兵数が少ないルージ・ヴェスター軍は今の陣形を保ったまま動くまい。フローイ軍も攻勢に出るならシュレーブと歩調を合わせて前進せねばならないが、そのシュレーブ軍が動こうとしないのである。
「砦を落とされたこと、行軍中の敵を攻撃して痛手を被ったこと、怖じ気づいたのでしょうか」
「しっ」
王子グライスの言葉に、ボルススは短く鋭い警告を発した。グライスの推測は正しい。シュレーブ王ジソーは戦いに慎重になっている。しかし、同盟軍の指揮官が怖じ気づいたと称したのを聞けば、味方の兵士も動揺するだろう。
利口なグライスもそれに気づいて話題を転じた。
「アトラス王子は?」
王ボルススは、グライスにとって、ある決意を秘めた名だということに気づくこともなく、返事代わりに前方のルージ軍の陣を指さした。
「奴はまだ自分の旗も持たぬはず。リダルが掲げていた王家の旗があろう。アトラスはその下にいる」
王ボルススはそう言ったが、すぐに王家の旗の傍らに翻る将旗に気づいて、別の将の名を挙げた。
「おおっ。やはり、サレノスか」
ルージ軍が砦を落とした戦の手際よさが際だっていた、最も手慣れた武人を考えればその名が思い浮かぶ。
「サレノスとは?」
「勇猛果敢で鳴り響いたリダルも、傍らにサレノスが居らねば、猪突猛進の若武者に過ぎず、戦を生き延びることもできなかったろうよ」
「そういう人物が、今のアトラスの傍らにいるということですか」
グライスの言葉に、王ボルススは頷いたのみである。過去の海外遠征の時には、当時は王子だったリダルの傍らで支え続けた人物だという印象がある。数回、言葉を交わしたこともあるが、穏やかな言葉と篤実な人柄の中に、底知れぬ知謀を感じさせる男だった。
この時、侍従の叫びが王ボルススとグライスの耳を射た。
「左翼、シュレーブ国。王の将旗が動きました」
観れば、左翼のシュレーブ軍が前進を始めていた。いよいよ、戦が始まる。待ちに待った状況だが、王ボルススはシュレーブ国王を評して舌打ちをするように言った。
「全く、気の早い御仁じゃ」
あらかじめ交わして約定では、前衛の兵に前進を命じる角笛を吹き、それを合図にフローイ軍も足並みを揃えて前進する手はずだった。しかし、戦功を焦ったのだろう。先に旗を振り、兵に前進を命じたのである。やや遅れて、フローイ軍の前進を促す角笛の音が響いた。間髪入れず、王ボルススも命じた。
「我が緑旗を振れい。前進の角笛を吹けっ。我らも兵を進めるぞ。我がフローイの勇者ども、敵を殲滅せいっ」
「では、私も参ります」
グライスが率いる部隊は前衛のフローイ軍の左翼に位置する。その部隊に戻って指揮を執らねばならない。もちろん最も危険に晒される役割を持った部隊だったが、王ボルススは孫の命を省みる様子もなく、グライスに頷いて見せただけである。役に立つものは孫の命でも使う。そして、与えられた任務を達成した者に本当の王位継承権を認めるという厳しさを持っていた。ただ、この時のグライスは、王ボルススに与えられた任務より、敵のアトラスと刃を交わすということのみにとらわれていた。
おぅっ、おぅっ、おぅっ、おぅっ
今は先ほどまで戦場に満ちていた兵士たちの威嚇の声は聞こえず、盾と剣を構えた兵士たちが一歩ごとに口を揃えて吐き出す短い怒号で戦場が満たされた。
シュレーブ軍兵士、そしてフローイ軍兵士たちは、横一文字の陣形のまま、小刻みに足を進めた。いよいよ、この地が兵士たちの苦痛の叫びで満たされる時を迎えたのである。




