布陣
距離を置いて布陣した両軍だが、いま、暗闇に見える敵陣のかがり火をみれば、両軍の距離は三ゲリア(2.4km)もあるまい。敵の夜襲に対する備えは万全だが、互いに敵の殲滅を目的にした戦いだけに、小規模な夜襲はあるまいと考えていた。
夜明けと共に全軍を動かし、全力を持って敵と戦う。両軍あわせて一万を優に超える兵士たちの血みどろの戦いになるだろう。
夜が明け、布陣する全軍を見渡した時、アトラスはネルゴーラの川辺に陣を敷くといった意味を理解していた。これから行われる戦は両軍の真っ正面からのぶつかり合いだが、その戦いの最中、側面に回り込んだ敵に攻撃を受けたり、後方に回り込まれるような不利は避けたい。逆に味方は敵の側面や後方から攻撃をかけて有利な戦の体勢を作ろうとする。
そのために、兵の一部を敵の側面に回そうと、味方は陣立ての両翼を広げ、敵もまた同じ事を考えて両翼を広げる。
いま、敵味方の距離は半ゲリア(約400メートル)もあるまい。互いに東西に長く兵を並べて向き合い、戦いの始まりを待っている。ただ、両翼を広げて敵の側面を突くという点では、兵数に勝るシュレーブ・フローイ軍に有利なはずだが、向き合うヴェスター軍が、この辺りでは南北に流れるネルゴーラ川の川辺から東西に陣を敷いたため、川が邪魔になってヴェスター軍の側面に回り込んでこれを突くことができないのである。言うまでもなく、味方の一方のルージ軍の最高指揮官はアトラスのはずだが、実質上の采配はサレノスが取っている。アトラスはただサレノスの進言に頷いて同意するのみである。自分の采配など他の指揮官に及ばない。そう言う無力感でアトラスは苛立っている。
つい先ほど、向き合うフローイ軍の陣形を眺めたサレノスが、アトラスの同意を得るという形を取ってルージ軍左翼の兵を率いるアゴースに兵を下げるよう指示した。中央に対して左翼は敵との距離を置いて側面に回り込まれるのを遅らせようという配慮だとも分かった。
戦に長けた指揮官とはこういうものかと納得しつつも、アトラスは自分の未熟さと運命にあらがえない自分の無力感に苛立ちを深めていた。近習たちの忠誠は信じても良い。ただ、この戦場にアトラスの複雑な心根を理解できる者はおらず、アトラスは孤独を深めていた。もし、彼を理解しようと努める者があれば亡くなったザイラスであり、今はこの場にいないレネン国のデルタスだけではないかと考えていた。
アトラスはふと左腕に気づき、更に右の指先で甲冑の胸を押さえて自嘲的な笑みを浮かべた。傍らにいたスタラススが、この緊張感が漂う戦場に似つかわしくない表情に首を傾げて聞いた。
「我らが王子よ、いかがされたので」
「いやなんでもない」
アトラスはこの笑みの理由を説明できなかった。
(私は、この場でこんなものを)
アトラスが左腕につけていた銀の腕輪は、勇者に神の真理を、その腕輪にはめ込まれたルビーの赤い輝きは勇者に勇気を与えるという。そして胸に感じる肌触りはクレアヌスの胸板と称される金属の円盤は、真理の神ルミリアの導きがあるというお守りだった。滑稽なことに、それをアトラスに与えたのは、今や敵になったシュレーブ国とフローイ国の二人の姫である。迷信を信じるわけではなく、二人の姫への愛でもなく、アトラスは与えられた品物を身につけていた。癒しきれない孤独や迷いを振り払う者が居るとすれば、アトラスに明瞭な道を指し示したリーミルであり、無垢な心でアトラスを包んだエリュティアだったということかも知れない。




