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アトラス、戦場へ

 翌日の早朝に進軍を開始したルージ軍は、正午を前に軍を停止させた。干肉と冷たいスープに浸した携行食ガンバクが配られ、兵士たちは戦い前の緊張で小さくなった胃を満たした。緩やかな斜面を持った峠で、視界が広がり、麓が見える。眼下に広がる緑の原は、豊かに実る麦畑である。汗ばんだ首筋に感じる風が峠を駆け下って、麦の穂先を撫で、麦畑の表面を波打たせていた。兵士たちは感嘆のため息をついていた。島国で山岳地帯も多い。そんなルージ国で生まれ育った兵士たちが、こんな豊かな平原を目にするのは初めてである。


 食事のための大休止も終え、これから起きる決戦で、カルネルギエの川辺にその部隊の右翼を伸ばすヴェスター軍が、先に隊形を整えて行軍を開始し、アトラスとサレノスが先頭に立つルージ軍がこれに続いた。王レイトスの部隊が、予定された位置に到達して進む方向を転じ、アトラスもまた、それに続いてカルネルギエ川へと兵を向けた。既に麓に達していて行軍する歩兵の足取りは軽い。点在する小さな林を除けば視界が良く聞く土地である。サレノスはもちろん徒立ちの兵たちより少し高い愛馬の背の上で、アトラスは周囲を回したが、敵の姿を見つけることはできなかった。しかし、敵が放った物見の兵は物陰に隠れてこの行軍を発見し、更に行軍の方向を転じたことも本陣に伝えるだろうと考えた。

 見上げる空は淡い雲に覆われ、行軍する兵士たちの影が淡い。しかし、雨の気配はなく、肌を焼く夏の直射日光を遮り、視界が開けた景色の中に涼やかな風が吹き渡っていた。兵が踏みしだく草むらから昆虫が跳ね、草花がつける白や黄色の花に蝶が舞っていた。降り注ぐ声に気づいて空を見上げれば、一羽の鷹が下界の兵士たちを見守っているようだった。これから起きる凄惨な戦闘を感じさせることがないのどかな田舎の景色である。


 やがて、後方から一人の兵が駆けてきた。

「伝令ぇー」

 それは隊列の最後尾につくアゴースからの情報である。千名ばかりの敵兵が接近してくるのが確認できたという。アトラスを始め近習たちは緊張した。

 サレノスが尋ねた。

「アゴース殿は、援兵を要請されたか」

「いいえ。ただ、敵の接近を伝えるように、とだけ」

「左様か」

 サレノスはそんな短い返事を与えた後、馬上のアトラスを振り仰いで言った。

「我らが王子よ、一つ、アゴース殿の戦ぶり、眺めて参りましょう」

 サレノスは部隊の指揮官には、前方のヴェスター軍の隊列にそのまま追従するよう指示をした。アトラスは愛馬アレスケイアの背を降り、その轡を従兵に任せてた。今まで徒歩で行軍していた近習たちに合図をして、共にサレノスを追った。


 ルージ・ヴェスター連合軍の最後尾では、戦は既に始まっていた。シュレーブ兵が本陣を出た時にどれほどの人数が居たものかは分からない。ただ、行軍中のルージ・ヴェスター軍を襲うために、よほど急いで駆けてきたのだろう。重い武具を身につけたシュレーブ軍の将士たちは息を切らせているようだった。この場所に到着するまでに脱落した兵士も多いだろう。自分が従うべき直属の指揮官を見失った兵も多いに違いない。隊列も乱れていた。戦える数を数えればアゴースが伝えた千名ばかりである。

 疲労し、戦うための陣形も整わず、指揮系統も乱れた烏合の衆に、アゴースの精兵が襲いかかっていたのである。シュレーブ兵は既に浮き足立ち、後方から遅れて追従してきたシュレーブ軍兵士は、前方の戦いに加わるどころか、背を見せて逃げ始めていた。


 その様子を眺めたスタラススがふと疑問を漏らした。

「バラス殿は我らを追撃する敵は居らぬと言っておられたはずだが」

 その言葉を、アトラスは修正した。

「敵が熟練した指揮官ならば、ということだ」

 サレノスがアトラスの言葉を補足するように言葉を継いだ

「左様。もし兵を率いる指揮官が熟練して居れば、兵の疲労と敵味方の距離を鑑みて攻撃は無理だと悟り、戦わずに引き上げたでしょう。もし、戦に長けた王ならば、戦の前にこの結果を悟って、将兵を死地に送ることはございますまい」

「王は命じた戦いの無謀さが理解できず、将は己の名誉にのみとらわれて退く事ができず兵を死に追いやったと言うことか」

 アトラスの言葉に、サレノスは頷いたのみで、話題を転じた。

「戻りましょう。今の我々がなすべき事は、ネルゴーラ川に陣を敷くこと」

「しかし、奴らが動かなければ?」

 アトラスの疑問ももっともである。ルージ・ヴェスター連合軍が川辺に陣を敷いても、敵が動かなければ、戦いになるまいというのである。

「そのときは、それっ……」

 サレノスは周囲を指さした。既にシュレーブ国内に深く侵入している。豊かな土地だと言うことを象徴するように、豊かな実りを付けた麦畑が広がっていた。とうに刈り入れが始まっている時期だが、まだ半分も刈取られてはいない。収穫を控えた大事な時期に戦が始まり、この地を預かる領主が農民を兵士として徴用した。村々に残された年寄りや女子どもでは、刈り取り作業もはかどらないと言うことだろうか。

 そして、残された村人たちも、この辺りに濃くなる戦の気配を恐れて逃げ出し、実りを着けた麦だけが残されている。

 サレノスはそんな無人の麦畑を指さして言葉を継いだ。

「兵を出して刈り取り、焼き払って挑発してやれば、奴らも黙ってはいないでしょう」

 豊かな収穫を奪えば、この辺りの領主は税収は期待できなくなる。それを嫌がって、敵も戦いを求めるというのである。ただ、当然のことながらもっとも大きな損害を被るのは、丹精に麦を育てた農民たちである。

「まったく、迷惑なことだな」

 アトラスは戦を一言でそう表現した。兵を退く合図の角笛が轟き渡った。アゴースが逃げる敵を深くは追わずに兵を退かせたと言うことである。アトラスは、カルネルギエ川へと足を向けたサレノスが、アゴースの小さな勝利に満足せず眉をひそめたのに気づいた。しかし、サレノスの立場で言えば違う。

(敵兵はもろく、敵将は戦を知らない)

 アゴースの部隊を襲った敵兵の士気は低く、指揮官は勝つことではなく王の命令の実行しか眼中にない。サレノスは本来は味方に有利になるはずの事実に気づいて、眉をひそめていたのである。この後、川辺で戦うシュレーブ軍が傭兵を中心とする軍で、シュレーブ国は別の主力を温存していると言うことである。


 明くる日、サレノスの予想とおり、敵を待ち受けるはずのシュレーブ・フローイ軍が、今は、敵のルージ軍・ヴェスター軍を追って陣を川辺に移動させ始めた。両軍から放たれる戦いの緊張感はネルギエの地一帯に満ちていた。

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