レネン国にて3 アトラス初陣へ
レネン国を通過し始めて二日。ルージ軍がこの日の宿営地と決めたのは、ネルギエの地まであと三日という距離の荒れ地である。陣は緊張感に満ちていたが、そこに混じる不安と動揺は日を追って大きくなるようだった。何しろ初戦で敗退しただけではなく、王を失っているのである。卑劣なだまし討ちで殺された王の仇を討つのだという士気を鼓舞する声も失われつつある。そして、神帝殺害に関与したという噂まで密かに広がり、兵の士気は低下する一方である。その陣の中で、サレノスが明日の戦いの準備を指示して回っている声が響いていた。
アトラスの天幕では近習たちが、無力ながら少しでも士気を煽ろうとしているように
浮かれ騒いでいた。天幕の外から聞こえるサレノスの声に、テウススが不満を漏らした。
「まだ三日はあるというに、あのジジイは何を急いておるのか」
オウガヌがテウススに同調した。
「大方、臆病風にでも吹かれて兵を鼓舞して居らぬと不安でかなわぬのだろうよ」
まだ幼きスタラススは別の疑問を口にした。
「それよりも、レイトス王の部隊はまだか、何をしておるのだろう」
「おい、スタラススよ。顔が赤いぞ。まさか水割りワインで酔って居るのではあるまいな」
「水ごときで何を言う。なんなら、ワインを一壺飲み干してみせるわ」
彼らが飲んでいるのは、水に少しのワインを混ぜて香りづけをした水である。テウススはまだ幼さが残るスタラススをからかい、スタラススがムキになって応じるといういつもの光景である。
「おくつろぎの中、失礼つかまつる」
そう声をかけて姿を見せたのは、サレノスを筆頭に、アゴース、バラス、ユキロットら、ルージ軍でそれぞれが数百の兵を率いる領主たちと、王サレノスからヴェスター軍の指揮を任されたロイテルら将軍たちである。
サレノスが思いもかけないことを言った。
「我らが王子よ、明日、シュレーブと一戦交える所存です。我らが王子ご自身の出馬も願いたく参上しました」
「ネルギエの地まであと三日はかかると言うが」
「それは、奴らの本隊が陣を構える場所。その陣を守るようにいくつかの砦を築くのが定法」
ロイテルの説明に、サレノスが続けた。
「我らは明日の夜陰に乗じてその砦を強襲し、奪いまする」
「奴らの砦を?」
アトラスの疑問に、サレノスはテーブルの上のカップの一つを取り、テーブルの端に音を立てて置いた。
「奴らの本陣がネルギエの中央にございます」
置かれたカップの位置が敵の本陣だというのである。サレノスは二つ目のカップを、最初のカップから離してテーブルの反対側の端に置いてそのカップの意味を言った。
「本陣の北側前方に二百人ばかりの兵が詰める砦がございます」
更に三つ目のカップを中央の陣を示すカップの斜め前に置いて続けた。
「そして、五十人ばかりの兵が居る二つ目の砦がその北西前方に」
四つ目のカップを中央の砦の斜め後方に置いた。
「そして、三つ目の砦は中央の砦からやや離れた南東部にあり、百名ばかりの兵が駐屯しております」
三つの砦はほぼ直線上に位置して、三つ目の砦がやや離れた位置にあるという位置関係である。
「私は、我らが王子と共に三百の兵を率い、夜陰に乗じて中央の砦を奇襲いたします」
サレノスは砦を攻撃することを象徴するように、カップをひっくり返した。無色に近い飲料だが、兵士の血を予感させ、水で割ったワインはテーブルの上に広がった。アトラスがひっくり返ったカップの斜め前のカップを指して疑問を呈した。
「しかし、北西部の砦の兵に背後を突かれはせぬか?」
「それは私にお任せあれ。時を同じくして、私が百の兵を率いてその砦を落とします」
ロイテルがそう言って、アトラスが指すカップをひっくり返した。
「では、南東部の砦はどうか。前方の砦が攻撃を受けたとなれば加勢に来るであろう」
アトラスが三つ目の砦を指さして問い、バラスが答えた。
「その砦はやや離れております。中央の砦が攻撃が受けたと知って加勢に来るのに、時がかかりましょう。私が息子と共に百の兵を率いて、我らが王子の部隊と共に進み。中央の砦の戦いには加わらずに前進する予定」
熟練した武将たちが三百、百という兵の数を主張する。その点についてアトラスが素朴な疑問を呈した。
「我々の兵は両軍合わせれば五千五百にはなろう。その内のたった五百で勝てると」
サレノスが結論を言った。
「審判の神の槍にかけて。今の五千五百の兵は精兵五百と同じ事」
「戦の女神は戦う者の意志で勝者を決めるとも申します」
バラスがそう言い添えた。バラスにそう言われてみると、アトラスも今の軍勢の士気の低下と向き合わざるを得ない。戦う意志を失った兵を率いて戦う無謀さをアトラスは肌で感じていた。
「では、私も初陣ができるので?」
オウガヌが父バラスの傍らに控えていたラヌガンにちらりと目をやって尋ねた。近習仲間だったラヌガンは父のバラスと共に戦い初陣を経験する。親友でありライバルでもある男に引けを取ってはなるかというのである。他の二人の近習も次々に声を上げた。
「近習として私も同行させてもらえるのですね」
「ラヌガンも、オウガヌも、テウススも初陣だというなら、このスタラススも仲間はずれになさらぬよう」
近習たちの言葉をサレノスがはねつけた。
「お前たちは足手まといになる。この陣に控えておれ」
文句を言おうとする近習たちを制して、アゴースが言った。
「私も今回は居残りじゃ。文句はあるまい」
歴戦のアゴースにそう言われては若い近習たちも言葉を返しにくい。まだ文句を言いたげなオウガヌにアゴースは笑いながら言った。
「それに、今回は陣にいても興味深いものが見られる」
「興味深いもの?」
首を傾げるスタラススに、アゴースは歯をむき出して笑ったのみで答えなかった。突然に初陣が決まったアトラスは戸惑い考え込んでいた。そんなアトラスにサレノスが語りかけた。
「ご心配めさるな。戦の手合いは、私にお任せあれ。今回は戦を感じ取るだけでよろしゅかろう」
「心配だと……」
アトラスにはその後の言葉が見つからない。突然聞かされた戦いに、不安を抱いているわけではなかった。ただ、三日後と予想していたネルギエの地での大戦の初陣に心を奪われていたが、突如として、それが変更になった。自分の運命が常に誰かによって左右され、自分自身で運命を切り開くことができないもどかしさと無力さに苛まれて居たのである。




