リダル王戦死
王リダルは素早く周囲を見回した。兵たちはよく彼に従っている。この戦に勝機があり、生き延びる手段があるとすれば、リダルに付き従って敵の王ボルススを討ち取ることのみ。兵たちは皆そう信じ込んでいるようだった。ただ、前衛を打ち破ったとはいえ、側面や後方から攻め立てられ、兵はじりじりと傷つき、脱落していた。つい先ほどまでいた二百の兵士たちも、今は戦える者は百名に足るまい。
王の剣を背負ったヂッグスと彼を補佐するリグロスも、ふらつく足で王の愛馬の傍らにいた。リダルは二人に左前方を指した。フローイ軍の隊列が途切れていて、その方向なら戦場から脱出できる可能性があった。ヂッグスとリグロスは王に頷いて見せて、味方の集団をなれてその方向に駆け始めた。ルージ軍の前方から新たなフローイ軍部隊が挑みかかってきたのは、その直後のことである。既にリダル自身がルージ軍の先頭を駆け、槍を振るい続けている。敵の返り血を浴びたすさまじい笑顔で兵たちを叱咤した。
「ボルススめ。最後の悪あがきをしおるわ。しかし、あれを突破すれば、あとは、ボルススのみ。裏切り者の命はもらった。ルージの勇者ども。勝利は間近ぞ」
そう言ったリダルは、愛馬オスロケイアの腹を蹴って前進を命じ、小脇に抱えていた槍の穂先を敵に向けた。
徒立ちのルージ軍兵士たちも王のあとを追って、新たな部隊とぶつかり合った。新たに正面から挑みかかってきたフローイ軍部隊。言うまでもなくフローイ国王子グライスが指揮する三百人である。その先頭を兵を率いるグライスが駆けていた。
そこには、冷静な知謀も、軽やかな剣裁きも無く、戦う者の意志だけがぶつかるように、剣と盾が発する重々しい音が響き、兵の肉体がぶつかり合う音さえ聞こえるようだった。グライスには振り下ろされる剣で斬られた者が、その瞬間に息をのむ音まで聞こえるように思えた。その苦痛の叫びを漏らすのは、その直後である。
次の瞬間、蹴散らされた兵士が倒れ、二人を遮る者もない位置で、グライスは王リダルと対峙した。徒立ちのグライスが見上げる馬上の血まみれのリダルは、呪われた運命を背負ったといわれのある海神にも見えた。
「リダルよ! 我が剣を受けいっ」
グライスがそう叫んでリダルに駆け寄りつつ剣を振り上げる刹那、リダルの激しい槍の穂先が剣を捕らえて、グライスの手からはじき飛ばした。次の瞬間、その槍が自分の喉元に向けられるのを見たとき、グライスは死を覚悟した。しかし、グライスの喉を貫通するはずの槍は、やや迷うように揺れたのみである。二人が再び見つめ合った次の瞬間、リダルは馬をグライスに寄せ、その頭部を蹴り飛ばした。グライスの体は激しく転がって地に伏せた。
「邪魔だ」
リダルがそう言い捨てた時には、その視線は既にフローイ軍本陣に向いていた。リダルが自分を殺せるはずだったのに殺さなかった。グライスは顔面を染めた鼻血を手の甲でぬぐってその理由を考えた。リダルが若い自分を見くびって情けをかけたと言うことである。しかし、リダルが自分が向けた槍の先の若者に、年格好が似た息子のアトラスの姿を思い浮かべ、その命を奪うのをためらった言うことに気づくはずもなかった。
戦場で敵の同情を買って命を救われるなど、若いグライスにとって死よりも恐れる屈辱だった。グライスは傍らの兵の死体の剣を手に、頭部を激しく打ったためふらつく視線をリダルに向けてよろよろと立ち上がって叫んだ。
「リダルよ。我を見くびるか! 私はフローイ国王子グライスだ」
「なんだと?」
リダルがグライスの名に反応して振り返るのと、槍を構えたのはほぼ同時である。一兵卒ならともかく、王子ならば屠ってゆく価値はある。グライスはふらつく体制で剣を構える間もなく、リダルの槍に突き殺されようとしたとき、意外なことが起きた。
「王子よ、危ない」
そんな叫びが聞こえた瞬間、馬上のリダルは、目を見開いて信じられないというような表情を浮かべ、苦痛の声を上げもせず、愛馬から転がり落ちた。その背から胸元へとフローイ軍の投げ槍が貫いていた。
「王子よ、リダルに止めを」
そう言ったのはグライスの副官ロットラスである。王子の危機と見て、リダルに槍を投げ、そして、今、王子に勝負の決着をつけよと提案しているのである。グライスは無我夢中で落馬したリダルに駆け寄り、その首筋に剣を刺したが、リダルにはそれに抗う力は残っていなかった。
リダルの愛馬が興奮して暴れたために、グライスはリダルの死体を離れた。見回せば、まだ戦いは続いていた。グライスは次の敵を求めて走った。ボルススの陣を目の前にした位置で、ルージ兵たちは、王を失っても最後の一兵まで自殺的な戦いを止めずに潰えた。王ボルススは本陣の兵を戦いに投入することもなく戦場には静けさが戻った。
右翼部隊から、アガルススとリダルに続く後続のルージ軍部隊は前進を諦めたように、数十の死体を残して兵を退いたという知らせがあった。ほぼ同じくして、イドポワの門の内側の押さえを担っていた左翼部隊からは、門の外側の戦闘も終わりを告げたとの知らせがもたらされた。
戦いはひとまず終わったのである。戦が終わったかに見えた中で、生き残ったフローイ兵たちは生気を尽くしたかのように、座り込んだり木々にもたれていた。その静寂を破って馬のいななきが響いていた。王ボルススは戦の終演を確認するかのように本陣から下ってきた。目の前に見えるのはリダルの死体に間違いはなかった。ただ、その傍らに馬がおり、フローイ兵がリダルの死体に近づくのを阻むように暴れていた。
フローイには馬の扱いに慣れた者は少ない。戦を生き延びた今、無用に負傷することを恐れるように、フローイ兵士たちは馬と敵の王の死体を取り囲むようにいた。
「ルージは馬まで王に忠節を尽くしおる」
王ボルススは敵を讃えるようにそう言った。臆病な生き物だと聞いていたが、馬が勇敢に主人を守ろうとしているように見える。
「赦せよ」
ボルススは短い謝罪の言葉と共に、兵士から槍を奪って投げた。槍は見事にその首筋を捕らえ、馬は地に倒れた。更にボルススは手斧の峰の部分で馬の頭部を一撃して殴り殺すように止めを刺した。傍らに居たグライスは、祖父が死んでゆく馬に、斧の刃の残酷な傷口を残さず、勇敢な姿をとどめてやろうとしたのだと考えた。
「槍は抜き、丁寧に葬ってやれ」
ボルススは馬を指さして静かに兵士にそう命じた。兵士が問うた。
「リダルの死体はいかがいたしましょう?」
「ジソー王と共に検分する。丁重に布で包み、運べるようにしておけ」
味方であるはずのジソーという名にに軽蔑がこもっているように見えた。戦場のあちこちでは、フローイ兵たちが地に転がったルージ兵の体を改め、息がある者には止めを刺していた。勝者たるフローイ軍にも、傷つき苦痛にうめく者たちが居る。戦死したフローイ兵士は百名に満たないが、一千名に近い兵士がいくらかの手傷を負い、重傷者の数は百を超える。
(この戦で得たものは何だろう)
グライスは戦場を眺め回してそんなことを考えていた。
この夜、グライスは生の見込みのない味方兵士を、死までの苦痛から救うために安楽死させてやるという凄絶な経験に涙を流すことになる。勇敢だが普通の青年に過ぎない。ただ、そんな彼にとって思いもかけぬ事に、兵士たちの間でグライスがアトランティス最強の勇者リダルを討ち取った英雄として噂が広がりかけていた。
血の臭いを吹き払うように風が吹き込んできて、その涼やかさに、生きている者たちは、惚けたように崖に切り取られた小さな空を眺めた。ただ、その風がぴたりと止むのと同時に、再び兵士たちはこの谷間に満ちた死臭を感じるのである。これから、この大地で繰り返される幾多の戦いを思わせるようだった。




