エリュティアの成長
話は少し遡る。シフグナを見舞った地震で、パロドトスがアトラスが神の怒りを買っていると吹聴させた頃。
同じ地震はシュレーブ国の王都に、シフグナより大きな揺れを持たらしていて、人心の乱れを生じさせていた。
昨年、エリュティアは聖都で、足下がふらつき、水路の水が壁面にぶつかって飛沫が散るほどの地震を経験している。その直後の人々の心の乱れにも接したことがあった。今回の揺れはその経験をやや上回っていた。
王宮の私室にいて、窓の縁に手をかけて体を支えていたエリュティアだが、足に感じる床の揺れ、手に感じる壁の揺れが収まるまで、彼女は自分の体を支えきった。
「エリュティアさま」
そう叫びながら、主人の身を案じて最も先に駆け寄ったのは、侍女のユリスラナだった。準備するはずだった飲み物は持っていないから、どこかで放り出してしまったらしい。クッションを頭の上に掲げた珍妙な姿は、地震で揺れる王宮の落下物から身を守るつもりらしいが揺れは既に収まっていた。長身の彼女がエリュティアの身長より低く身を屈める様子は、今の地震によほど恐怖を感じたに違いない。ただし、その恐怖をものともせず、エリュティアの元に駆けつけたのは忠誠心の証と言えた。
ユリスラナより早くエリュティアの身辺を眺め、怪我がないことを確認していた侍女頭ルスララがユリスラナに視線を移して呆れるように言った。
「まったく。剣を奪って蛮族を殺そうとするあんたが、地震が怖いのかい?」
ルスララがそう言った出来事は、王宮の中で知らぬ者は居なかった。昨年、神帝追悼の儀式で聖都を訪れたとき、彼女がアテナイ軍の一隊を率いるエキュネウスの剣を奪って脅したことである。当時、エリュティアの護衛に付いていたエルグラス兄弟が、尊敬の念を込めて王宮の中で噂をばらまいていたのである。
「あのユリスラナは侍女の衣装より、甲冑姿が良く似合うに違いない」と。
そんな勇者の噂に似合わず、今の彼女は幼女のように素直な恐怖を見せていた。彼女は言った。
「だって、地面が揺れるのは神々のお怒りです。もっと悪いことが起きる前触れに違いありません」
自然な思いが口を突いて出たのだが、もっと悪いことがという一言は余計だった。アトランティスでは人々が口にする言葉は神々に届いていて、時に悪戯な神々はその言葉を聞き届けるという。ルスララが慌ててその言葉を取り消した。
「悪いことなど起きるはずがないでしょう。ほらっ、もう、この通り、王都は落ち着いています」
その言葉にエリュティアが応えた。
「その王都の様子が知りたいのですけれど」
「それなら、私が同行いたします。ご一緒に王都を見聞に参りましょう」
喜び勇んで提案したユリスラナの頭に拳骨を見舞ってルスララが別の提案をした。
「では、王都の各所に人を遣わして状況を見聞させて参りましょう」
ルスララがそう言ったのは、エリュティアを慈しみ育てる乳母としての役割である。地震が収まったとはいえ、心身は乱れているかも知れず、治安の悪化も予想される。王宮には異常はないようだが、町の中には今にも壁が崩れ、頭の上から瓦が落ちてくるかも知れない。渡っている橋が崩れて川に落ちることがあっては大変だ。ルスララの心にはそういう悪い想像ばかりが広がるのである。
このとき、頭の痛みを押さえて、拳骨の恨み言を口にしようとしたユリスラナを制するようにエリュティアが口を開いた。長年、彼女を守り育てた侍女たちにとって、意外な言葉だった。
「でも、私は、行って、自分で、眺めてみたいのです」
侍女頭ルスララに反駁して、エリュティアが自分の意志を語ったのは初めてだった。その意外さにあっけにとられていたルスララが口を開く前、侍女ハリエラナがそっとルスララの肩に手を添えて言った。
「ルスララ様。ここはユリスラナに任せてはいかがでしょう。甲冑姿が似合うという噂の彼女なら、エリュティア様を間違いなくお守りすることでしょう」
控えめだが、自分の意見を口にするときには確固たる信念を持っている。その上、エリュティアを見守り続けた経験は、ルスララにも劣らない。ハリエラナというのはルスララも一目置く侍女である。長年、共にエリュティアに仕えた者として、ルスララはハリエラナの意図を理解した。
ルスララは視線を転じて言った。
「ユリスラナ。エリュティア様をしっかりお守りするんだよ」
そんな言葉をユリスラナは半分しか聞いていない。外出の許可を得た嬉しさを顔に浮かべるエリュティアの手を引いて、衣装部屋へと駆けるように去っていった。
「コートは厚手で寒さがしのげるものを。フードは大きく顔を隠せるものを」
高貴な者がお忍びで出かける衣装を、ユリスラナの背に事細かく浴びせるルスララに、ハリエラナは微笑んで首を横に振った。あとはあの二人に任せようというのである。
一呼吸置いて、ルスララはため息をついて言った。
「私も老いたかねぇ?」
そう言う彼女の息が荒い。王ジソーから静養を勧められていたが、エリュティアの事が気がかりで王宮に姿を見せている。その彼女の体調もまだ回復しきっていない。
ハリエラナはそれには触れず、再び微笑んで首を横に振った。
「いいえ。エリュティア様が変わられたのでしょう。私たちが気づかないうちに、いつの間にか大人に……」
二人はエリュティアを慈しむように、彼女が姿を消した方向を眺めていた。エリュティアの成長にため息を重ねて自分の老いを嘆くルスララに、ハリエラナは励ましの言葉に迷った。どう表現すればいいだろう。エリュティアが素直に成長の様子を見せているが、たぶん、傍らにいるユリスラナが良い刺激を与えている。ルスララがエリュティアの傍らに置く新たな侍女にユリスラナを選んだのは間違いなかったということである。
しかし、ルスララは眉を顰め、取り越し苦労ではなく現実的な不安を口にした。
「まさか、あの娘。エリュティア様に木登りをさせたりしないだろうね」
ユリスラナが王宮勤めをするときに、エリュティアに木登りを教えてあげると宣言していたのを思い出したのである。
ハリエラナはそんな取り越し苦労にも笑って首を横に振った。
「大人になったエリュティア様にいろいろと見せて差し上げるのも、私たち侍女の大事なお役目かも知れません」
「でもねぇ。エリュティア様が望んでも、反対する者たちも多いだろうしねぇ」
この国のたった一人の王女の安全を気に掛けて彼女の外出に反対する者たちも多いということである。ハリエラナは名案でも思いついたように言った。
「それなら、ルスララ様には今しばらく、保養所で静養していただいていればいかが? 乳母の見舞いに行くと言えば、その場所は我が王の保養所。外出の名目にも、行く先にも文句などつける者はおりますまい」
ルスララは黙ってハリエラナの笑顔を眺めて、その真意を察した。もし、ルスララが体調を崩して倒れる事があれば、エリュティアの心痛は計り知れない。そのためにはルスララに体調が万全になるまでは静養に専念して欲しいというのだろう。
確かにその通りだろう。ルスララは自分自身に言い聞かせように頷いた。
「そうだねぇ。そうさせてもらおうかねぇ」




