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ローホミル

 アトラスが見上げた空は、どんよりと曇って太陽は見えなかった。その空も街道に多い人影を避けて森にはいると、木々に阻まれて見えなくなった。ただ、冬の寒さは変わらずに肌を刺し、愛馬アレスケイアの息は白かった。

(このまま、何もかも凍り付いてしまえばいい)

 アトラスは木々の間を赴くままアレスケイアを走らせた。視界の利かない森だが、道に迷う不安はなかった。樹木が太陽に向ける枝振り、樵が切った切り株の年輪、微妙な現象や変化から方位を読み取る知識と経験を持っていた

 もし、彼が生まれる時と身分を選ぶことが出来たら、現代に自然科学者として植物か動物相手に平凡な一生を望んだかも知れない。そういう繊細な感性を持った青年である。


 父親リダルの死の報に直面したときのこと、入り乱れた彼の心を解きほぐせば、自分を導く偉大な指導者を失ったという衝撃で混乱する心を、怒りと復讐心に変えて抑えた。

 もし、真理のルミリアが、偉大な父親に感じ続けた劣等感から解放された安堵感を感じだかと問えば、彼は頷かざるを得なかった。

 もし、愛情のフェイブラがアトラスに、彼が母親のために父親の歓心ををかうべく、かぶり続けた武人の仮面を脱ぐ許可を与えたら、戸惑いと共に拒否したかもしれない。

 彼はそういう複雑な心理が絡み合う中で、表面的には父の死を乗り越たあと、王リダルが自分の父親なのだと実感する出来事を幾つか経験した。最初の死の報は肉親の死という感覚が浅かったのかも知れない。


 兄とも感じた近習のザイラスの死は、過去の出来事として知った。アトラスの力が及ばぬ運命の場所での出来事も、受け入れがたいという信念が時間と共に溶けて揺らいで、いつの間にかザイラスの死が事実としてアトラスの心に刻まれた。

 この戦いで亡くなった数多くの将士の死は、彼らの命と引き替えに、自分が何かを成し遂げねばならぬと言う義務感に変わって彼の心に定着した。

 ただ、アトラスの心は静まったわけではなく、ちっぽけな自分を自覚し、自分の弱さをさらけ出して相談する相手もなく、孤独感を深めていっただけである。


 アトラスにとって、ロユラスの死は他と違った。

 幼い頃から血筋を否定する関係だったが、ある時を境に交わってみれば、自分を上回る能力と包容力を感じさせられた。

 自分の矮小さをロユラスと比べれば、自分など居なくなっても国は安泰だという安堵感があった。さらに、ふとした身近な癖や言葉遣いにロユラスとの共通点を感じ取ることも出来、紛れも無く、血を分けた兄弟だという実感がわき出ていた。

 アトラスがロユラスの死を知ったのは、ロユラスの存在が彼の中で心の支えになった時の出来事だった。その知らせて彼は心の支えを失い、進むべき方向も見失ったのである。


 頼るべきもの。それを考えたとき、片腕のアトラスは右手を左胸に当てる癖がついていた。その指先に鼓動は感じず、固く丸みのある金属板に彼自身の体温が乗り移ったのを感じるのみである。

 アトラスは上着を脱ぎ、付けていた胸板の鎖を外した。間近で眺めれば、胸板の中央から縁へと向かうえぐれた傷は、カルネルギエ川の戦いの時、フローイ軍兵士の槍を受け止め、その穂先をそらしてアトラスの命を救った名残の傷である。槍は彼の左の脇腹と二の腕の肉をえぐっただけで逸れていた。片腕になった彼の体に、その傷が赤く盛り上がって残っていた。

(もし、あの時に、胸を貫かれて死んでいたら)

 アトラスはそう考えたが、結果は想像がつかず、今、自分が生きている事を思い知らされただけである。彼はアレスケイアの背にかけた厚手の毛布の端に胸板の鎖を結びつけ、肌着と上着を着用した。アレスケイアが暖かい鼻面を寄せて甘えてきたため、アトラスはそれを撫でて愛情を返した。

「アレスケイアよ。今はお前だけだ」

 心を許せる相手はこの愛馬だけ。この時のアトラスはそう考えていた。アレスケイアは主人が跨ろうとするのを察してアトラスに体を寄せ、アトラスはなめらかな動きで愛馬に跨った。今のアトラスは片腕で馬に乗るのに慣れ、愛馬もそんな主人に慣れていた。アレスケイアはアトラスの手綱に込められた意図をよく察して、木々の間を縫って走り始めた。

 しかし、アトラスは長く身につけていたクレアヌスの胸板の鎖が切れかかっている事には気づかなかった。


 胸板が無くなっているのに気づいたのは、ふと見つけた水辺でアレスケイアに水を飲ませようとしたときである。アレスケイアの背の毛布の端に結びつけていたはずの胸板がない。滑稽なことに、彼はそれを求めて胸に手を当てた。もちろん、胸にその感触はなく、何よりも、鎖は毛布の端に残っていた。彼は胸板が鎖から離れて失われたことを認めた。

 今の彼の心情は濁りが無く、素直だった。母からはぐれた幼児のように不安げに地面を眺め回した。落とし物は見あたらなかった。アトラスは右腕で愛馬の手綱を曳きながら、地面を眺めて元来た道をたどり始めた。しかし、幾つもの木々の間を気ままに縫ってやってきた。そのどの木の間を通ったかなど思い出せるものではなかった。地には落ち葉が厚く積もっていた。胸板は落ち葉をクッションにして、音も立てずに 地面のどこから転がったに違いなかった。

 どれほどの間、地面を眺めて歩いたか、アトラスには分からなかった。ただ、アトラスの心の中に、失ってはならない物を失った失望感があふれた。考えてみれば、滑稽な姿だった。あの胸板は敵国の姫エリュティアが彼に託した品で、本来は捨ててしまうべき物。アトラスはそれを必死で探し求めている。

 今、アトラスは自覚した。彼の命を救ったあの胸板が、いつしか彼の孤独な心を支えるお守りになっていたということである。元来た道を探して迷うアトラスは木々で少し途切れた草むらに、景色の変化を見いだして、ここを通ったことを思い出した。ただ、ここで胸板を落としていたとすれば、草むらの影に隠れて見つけるのは難しかろうと、絶望感すら感じてため息をついた。

 アトラスはふと足を止めた。ルージ国でも見慣れたローホミルを見つけたのである。故郷を遠く離れたこの地で、懐かしい知古に再開したかのような親しみに捕らわれて、彼はしゃがんで一株のローホミルに手を伸ばした。眺めれば周囲はローホミルの群生地と言って良かった。ただ、アトラスはローホミルとは明らかに異なる葉と茎の形状を見つけて、別の野草の名を挙げた。

「ミコスに、シャクナに、カミッツラまで」

 ローホミルが一面に茂って、その群生地に見えるが、その株の間から別の野草が顔をのぞかせて、様々な野草がこの地で仲良く共存しているように見える。これらの野草には全て名があることをアトラスは知っていた。野草の数だけ精霊が居て、まだ名前を知らない野草は、その精霊が名を明かしていないだけ。何れも初春に花を咲かせる植物で、よく見れば、未だ小さく固いが蕾を付けていた。

 しゃがんで低くなった視界の中に目にとまった物があった。彼は野草の中に落ちていたクレアヌスの胸板を見つけたのである。

「ああ、真理のルミリアよ、感謝します」

 アトラスは胸板を胸に抱き、神に素直な感謝を捧げた。胸板に真理のルミリアの姿が刻まれている。改めて眺めれば、その姿は当世風の厳しさと厳格さを兼ね備えた姿ではなく、包容力と愛情に満ちた古風な姿である。

 その優しげな姿はこの胸板の送り主のエリュティアの面影と重なった。

 自分を支え、導く者。アトラスが求め続けてきたぼんやりとした姿が、切ない願いをあふれさせたエリュティアの瞳のイメージと重なった。アトラスは別れ際にエリュティアにかけられた言葉を思い出した。

「願いますれば、貴方様が救国の英雄レトラスとして、私の元へお戻り下さいますように」

(あの人に、この身を捧げ、その先にあるものを眺めてみよう)

 アトラスは唐突にそう思った。どす黒い陰謀や私利私欲の争いが入り乱れるこの大地で、あの女性の切ない瞳だけが無垢に変わらず、アトラスを導き続けるように感じたのである。


 アトラスが王都カイーキに戻ったのは、冬の早い夕暮れを迎えようとする頃だった。いつの間にか降り始めた霧雨がアトラスとアレスケイアを包み、軽く駆け続けたアレスケイアの火照った体から湯気が立っていた。王都カイーキの北の城門を前に彼は愛馬を下りて手綱を曳いた。

 王都カイーキの北の城門では、テウススとスタラススが彼の帰りを待っていた。

「我らが王よ。体が濡れては、お体に差し障ります」

 テウススはそう言い、自分の来ていたマントを脱いでアトラスに着せようとした。しかしアトラスは柔らかく拒絶した。

「よい。お前たちも濡れて居るではないか」

 長くアトラスを待ち続けていたテウススとスタラススが外気に晒した頬も雨がしずくになってしたたり落ちていたのである。

 アトラスは空を見上げて呟いた。

「雨にも、春の精霊カワラネの息吹が」

 アトランティスには降り積もるほどの雪が降ることは珍しい。ただ、先日まで時折静かに雪が舞っている景色に比べれば、吐く息は白く、霧雨は冷たくとも、寒さが和らぐ気配が感じ取れる。春の精霊カワラネが訪れ、春風のトライネが春の門を開ける日も間近だろう。しかし、それは本格的な戦の到来を意味している。

ローホミル。和名がオオイヌノフグリ。アトランティス原産で、ヨーロッパを経由して日本でも見かけるという設定です。初春に都会の道端にも見かけることがある可愛い花をつけます。来年、皆さんも足元に注意して探してみてくださいね。


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