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フローイ軍出陣2

 館の各所の僅かな灯りが照らされるものが、この世界の全てであるかのようだった。小さな世界が静まりかえるなか、フェミナは間近に迫っているというフローイ軍の出陣について考えていた。戦の帰趨についてではなかった。今の彼女はただ、この国の軍の出陣をどうやって見送ればいいのかと言うことだけ考えていた。

 彼女はこの国の王子グライスに嫁いだときから、次の国王の王妃としてこの国を統べるという義務感は自覚していた。ただ、この時のフェミナには、この辺境の国にも、そこで暮らす人々にも愛着はもてず、次期王妃という立場を名誉だとは考えていない。やや、首をかしげるのは、彼女の夫が、シュレーブ国では全く見かけなかったタイプの男で、粗野な乱暴者というイメージにも当てはまらなかった。夫を嫌っているわけではないが、理解しがたい思いが、夫との関係に距離を置いているのである。

 突然に、フェミナにシュレーブ国から付き従ってきた侍女たちが騒ぐ声が響いた。ここは、まるで大切な者を保管する宝物庫であるかのように、王の館でも最も奥まった部屋である。

「この奥はフェミナ様の居室です」

「困ります。入室にはフェミナ様の許可を」

 侍女たちのそんな声が接近し、フェミナは状況を察して眉をひそめた。彼女の夫が居室に踏み込もうとしているのである。女の居室に乱暴に踏み込もうというような野蛮な習慣を受け入れる気はなかった。フローイ国に嫁ぎはしても、シュレーブ国の習慣を捨てる気はない。フェミナはそれを夫にしっかりと要求せねばならないと考えた。

 フェミナは意を決した表情で立ちふさがって、部屋に乱入してきた夫を出迎えた。

「何事です。野蛮な振る舞いは許しませんよ」

 フェミナの鋭い視線を伴うそんな言葉も聞こえないように、グライスは部屋の中をゆっくり見回した。不思議そうに、どこか懐かしそうに。やがて、夫は妻の鋭い視線を正面から受け止めた。フェミナは自分の鋭い表情が、夫の和らいだ表情に包まれるような気がして戸惑いを見せた。が、彼女は夫を非難する口調を弱めようとはしなかった。

「たとえ、夫婦の間でも、礼儀を守りなさい」

 フェミナは迷惑そうな顔をする夫に言葉を継いだ。

「フローイの野蛮な習慣など……」

 そんな言葉で怒りを伝える新妻を、グライスは謝罪や説明など不要といわんばかりに肩に担いだ。男の肩に担がれるなど、フェミナにとって生まれて初めての経験で、屈辱だった。しかし、貴族としての妙なプライドがあり、顔を上げて駆け寄ろうとする侍女たちに言った。

「いいの。これは私たちの問題よ」

 女として、妻として、このような振る舞いは許せないと、教えてやらねばならない。ただ、そんなフェミナの姿は冷静に見れば、男の肩に担がれながら虚勢を張っているような滑稽な雰囲気も漂わせていた。

「このような乱暴、絶対に許しませんよ」

 肩の上のフェミナの叫びはむなしく響いた。王の館の中、フローイ国の人々は妙な夫婦関係を見守るだけで、グライスの妻への乱暴を諫める者はいなかった。

 罵倒する妻を肩に担いだまま、グライスは黙って王都カイーキ中央の街道を歩んだ。人々はそんな二人の姿を見送った。大勢の人の前で、まるで荷物のように担がれる屈辱と怒りで、彼女は夫をなじり続けたが、その声が周囲に遠慮するようでやや小さい。

「私をどうするつもりですか、この野蛮人」

 街道上で大声を上げる彼女は注目を浴びていたのである。街道を行く人々は声の主を指さして眺めた。何事かと窓から顔を出す人々は、その正体を知ってあきれ顔を笑顔に変えた。人々には若い夫婦にありがちな痴話喧嘩を見守る気配はあったが、侮蔑の顔はどこにもなかった。

 夫を謗る語彙もつきて、彼女は同じ言葉を叫びながら、拳で夫の背を打った。彼女の言葉にも暴力にも、あまりに手応えがない。この無力感が彼女の過去の記憶の一つ一つを呼び起こした。王家に準じる高貴な生まれで、幼い頃からちやほやされて育った。幸せだったのは何も知らない幼い頃だけ。

 幼いながら、初恋も経験した。しかし、将来、嫁ぐべき相手ではなく、色恋沙汰など嫁ぐ際の邪魔になると周囲の反対を受けた。周囲の人々にとって、女など政略結婚の道具にしか過ぎないのである。彼女の母もそうだった。ただ、フェミナは自分の運命を受け入れる母親のような生き方を拒絶した。

 このフローイ国に嫁ぐことも彼女の意志ではなかった。自分の運命を自分で決められない悲しさ。それを彼女はこの世界には自分の居場所がないと考えていた。

「この野蛮人! たとえ、夫婦の間でも礼儀を守りなさい!」

 フェミナの声が、再び大きくなったのは、町の外れを過ぎ、人目を気にする必要がなくなったからである。しかし、いつしかその言葉も闇に溶けるように消えた。周囲は森で、時折差し込む月の光が、街道に二人の淡い陰を作った。

 ここで野蛮人から屈辱を受けても、自分には為す術がない。夫の肩に担がれるというやや滑稽な姿のまま、今までに背負った重荷を全て涙とともにはき出して、今の彼女の心は空虚だった。夫の背を打っていた拳にも勢いがなくなっていた。

 やがて、彼女は最後の怒りを込めて、短く言った。

「下ろしなさい。自分で歩きます!」

「そうか」

 グライスはあっさりとそんな返事をした。彼女を地に下ろす夫の腕に意外な優しさがあり、フェミナの心に染みいった。グライスは凝った肩の筋肉を揉み、肩をぐるぐる回して、意外なことに気づいたように言った。

「重かった。華奢に見えても、大人の女だな」

「はぁ?」

 フェミナは夫の言葉に意味もない呟きを漏らすしかない。重い甲冑を身につけ、剣を腰に下げて歩くことを苦にしない男だが、初めて担いだ生身の女は、今までのどんな重量物よりやっかいだったというのである。ただ、その重さと伝わってくる体温によって、彼は妻が一人の生身の人間だと実感したらしいのである。

 やや距離をおいて、夫婦は月に照らされた互いの姿を眺めた。泣きはらした目に怒りや疑問を浮かべるフェミナに、夫グライスはぽつりと言った。

「よいか。明日、私は出陣する。その前に、共に眺めたいものがある」

「見せたいもの?」

「そうだ。お前とともに眺めなくてはならない」

 夫の腕が腰に伸びてきたために、フェミナはそれを拒絶して、その指先をつかんだ。手をつなぐという行為で、今しばらくはグライスに導かれるまま歩くと意思表示したのである。

 二人は街道を逸れ、王都の北にそびえるメガムス山へと道をたどった。緩急の傾斜が続き、いつしか、二人は互いの手をしっかりと握っていた。続く沈黙に耐えられないというように、空を見上げてフェミナが口を開いた。

「暗い。月も隠れてしまいました」

「よい。カイーキは月の都なのだ」

 二人は歩き続けている。どれぐらいの時間歩いただろう。フェミナの息が弾むほどの距離だった。メガムス山の山頂など、道を北部に折れてまだ遙か先である。突然に視界が開け、グラムスは切り立った急な斜面の下を指さした。

「見ろ」

 眼下に見えるのは、王都カイーキに違いなかった。王都を囲む黒々とした濃淡は都を囲む森である。月が雲間から姿を現して、都の東の湖を照らした。夜半に漁をする小舟が作る湖面の波が確認できるようだった。大小様々に輝く灯火が、星の光のように輝いて、王都の全景を現しだしていた。

 ずいぶん歩いたつもりだったが、湖面の波や王都の町並みが確認できる小高い峠の光景だった。そこで生きる人々の息吹さえ感じることができる距離と高さである。

シュレーブ国の都パトローサはその壮麗さと美しさで日の都と称される。このカイーキは森や湖を伴った夜景の美しさで月の都と呼ばれるのはこの美しい夜景の所以か。フェミナはその人と自然が織りなす美しさにため息をつきながら尋ねた。

「この景色を見せるために、あのような乱暴を働いたのですか」

「あの部屋で、この王都の景色を眺めようと言っても、お前は承諾すまい」

 グライスは快活に笑った。フェミナは静かに頷くしかない。たしかに、拒絶しただろう。今、この景色に感動しているのは夫に担がれたおかげといえるかも知れないのである。グライスは意外なことを言った。

「あれを、私の父と、シュレーブ国から嫁いで来た母が造った」

「ティルマ様が」

「ああ」

 頷く夫の横顔にフェミナはふと思い出した。王の館でフェミナに与えられた王妃の居室。グライスが乱入したときに、妙に懐かしげな様子を見せたのは、グライスが幼い頃に亡くした母の居室だったせいもあるのだろう。言葉が短い夫だが、心の中をはき出すように切れ切れに言葉を継いだ。

「あの灯りに人々が集う姿がある」

 グライスは灯りの一つ一つを指さすように、伸ばした人差し指を動かして見せた。広場で炊きあげられるかがり火、住民たちの家々から漏れる灯り、一つ一つの灯りに様々な人が集い、それが一つにまとまってこの王都カイーキになる。グライスはそう言うのである。彼は空を仰いで、願い事でも口にするように言った。

「父と母のように、私もお前とあの都をもっと美しくしたい」

 そして、やおらフェミナに向き合って提案した。

「どうだ、手を貸してくれるか?」

 彼が両肩をつかむ手に力がこもったが、フェミナはそれを拒絶しなかった。彼女の目から涙が静かにあふれただけである。グライスという青年は、今までに彼女が出会ったどんな人々とも違った。彼女にこの国を作る運命を託すという。彼女はようやく自分の居場所を見つけた。彼女はグライスを見つめて囁くように言った。

「やっと、自分の運命を見つけたような気がします。この幸せが貴方とともにありますよう」

 彼女はこの夫を愛したいと思った。そして、この国や国民が愛おしいという思いで満たされた。この時、緊張で彼女の肩をつかむ手に力が入りすぎていたことに気づいたグライスは慌てて手を離した。代わりにフェミナの腕が優しく伸びて彼を優しく抱きしめた。

 月の光の下、二人が一つになった。


 一夜が明け、今日は出陣だというのに、王の館の中はいつもと変わらない朝食前の光景が広がっていた。食堂で雑談を交わす王ボルススとリーミルから少し遅れて、グライスとフェミナが姿を現した。その二人を指ささんばかりに視線を注いだリーミルが、笑顔で言った。

「あら、あらっ。女神パトロエのお許しがありますように……」

「何のことだ?」

「不浄ではないの?」

「かまわぬよ。アレも男になったということだ」

 アトランティス神話にパトロエという女神がいる。勇敢な男を愛し、その男を願いを成就するという戦を司る女神である。ただ気まぐれで嫉妬深い性格で、その男に女の匂いをかぎ取れば、逆にその男に仇をなすという。信心深いアトランティスの将士たちは出陣前に女と交わるのを避ける通例なのである。

 新婚の夫婦をみれば、二人が寄り添い交わしあう視線にぎごちなさがない。夫と新婦がつなぐ手には互いにいたわりがあり、その新婦の体に艶やかさを感じることができる。

 王ボルススもリーミルも、昨日の夜半の館の中での騒ぎは聞き知っていた。何かがあったのだろうと期待を込めて推測を深めていたら、その回答が目の前に現れたというわけである。


 昼を過ぎる頃、フェミナの顔から笑顔が消えていた。昨夜の彼女は勇壮な出陣の先頭に立つ夫を見送る見送る妻という義務的な想像をした。今、彼女の夫は、フローイ軍の一隊を率いる武将として、王都カイーキを離れつつあった。

 夫の勇壮な姿は想像通りだが、彼を見送るフェミナの心は、愛する者との別れの切なさと、戦場で夫を失うかも知れない不安や恐怖に満ちていた。


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