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ルージ軍出陣

 サレノスという老人の出自について、アトラスが幾ばくかの知識を得たのは、軍議の明くる日、母親の私室を訪れたときである。母親は腹立たしげな表情で落ち着きなく部屋を歩き回っていた。

「母上、いかがされました」

「あの者のことじゃ」

「あの者?」

「サレノスのこと」

 母リネは、サレノスのみならず、既に軍議の内容まで知っていた。彼女は親指の爪を食いちぎるほどの強さで噛んで言った。

「何ということじゃ。アトラスにあのような者をつけるとは」

「サレノスとは何者です?」

「裏切り者です」

「裏切り者とは?」

 話を聞けば、過去の海外遠征の前には、誰よりもルージ王家に忠実な男だったらしい。まるで異境の魔術にでもかけられたように、帰国後は蛮族の女を信奉するようになった。そして今でもそれが続いていると。

 リネは普段からフェリムネの館を探らせているし、情報を持ち込んで金にする村人もいる。彼女はサレノスがこの王都に姿を見せる前にフェリムネの館に立ち寄って親しげに話をしたことを聞き知っていた。王の謁見前に、王を惑わす蛮族の女の元を訪れるなど、王と王妃の自分に対する裏切り行為だというのである。

 敵か味方か、それがリネの判断基準だった。冷静なアトラスは、母の言葉が一面しか見ていないことに気づいてはいた。ただ、母を失望させることを避けて、母の話にいちいち頷いて見せた。この時のアトラスは、自分と母リネと妹ピレナという家族にやや孤独感を感じていた。昨日の軍議の席上のこと、アトラスに幼い頃から守り人として仕え、リダル王の信任の厚いクイグリフスでさえ頼りにならなかった。この家族を本心から守ろうとする者がいるのだろうかという不安である。少なくとも、あのサレノスという老人は信頼できる味方ではあるまい。

 この時、部屋に顔を見せた二人の少年がアトラスに声をかけた。

「我が王子よ」

「おおっ、ラヌガンとロイータスではないか」

 姿を見せたのは、アトラスに近習として仕えるラヌガンとその弟である。気さくに語り合う友人といってもいいが、この時のラヌガンは、ややとまどうような気遣いを見せた。アトラスはその理由を悟って、用件を先に切り出した。

「よかろう。先にゆけ。ただ、私の手柄も残しておいてくれ」

「わかりました。私は少し遠慮して、大物は王子に残しておきましょう」

 本来ならばラヌガンはアトラスの近習としてアトラスとともに出陣する。ただ、今回は父親のバラスの願いで、ラヌガンはアトラスに仕える近習の役職を解かれて、父とともに第一陣として渡洋するのである。ラヌガンは、後に残されるアトラスを気遣って挨拶に来てくれたに違いなかった。

 帰って行くラヌガンの背を見送って、アトラスは安堵のため息と同時に、自分の被害者意識を笑った。彼は孤独ではなかった。様々な形で彼を支える人々がいたのである。

(せめて、ザイラスがいてくれたら)

 アトラスは最も信頼する青年の名を思い起こした。彼なら、アトラスがとまどう前に導いてくれるだろうと考えたのである。この時のアトラスは、シリャードに残ったザイラスが、既に六神司院の者どもに、神帝の暗殺の実行犯として謀殺されたことを知らなかった。

 この日、アトラスは都を立つ第一陣を複雑な気分で見送った。戦に付きまとう怯えはなかった。ただ、希望や期待が、将来を見通せない不安や苛立ちに包まれて、心が落ち着かない。


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