老将サレノス2
「ロユラス。櫂をおろしなさい。この人たちは敵ではありません」
館から出てきて叫ぶようにそう言ったのはロユラスの母フェリムネである。ロユラスはとまどいつつも母の指示に従った。
「ゴルスス。お前もだ。剣の束から手を放せ」
フェリムネの背後から長身で初老の男が姿を現して、指揮官の兵にそう命じた。剣の束に手をかけていた兵士が緊張を解いた。初老の男はロユラスの姿を眺めてフェリムネに言った。
「おおっ、大きゅうなられましたな」
「ええ。貴方がこの地を去って、まもなく十八年になりますもの」
フェリムネがそんな表現で息子の歳を語った。ロユラスの見るところ、母の傍らにいる男の顔には歳は六十に達するかという皺が刻まれていた。この時代、よほどの老人と言っていい。その老人がロユラスに向ける視線が優しい。彼はロユラスに歩み寄り、昔を思い出すような口調で名乗った。
「我らが王より、北のイングセの領地を賜るサレノスと申します。お見知りおきを」
そして、臣下の礼をとるように、ロユラスの前に片膝をついて頭を垂れて忠誠を誓った。
「ただいま、この時より、いついかなる時でも、あなた様を支える者となりましょう」
「母さん、このジジイは?」
息子の言葉に、母は首を横に振って間違いを正した。
「サレノス殿よ」
ロユラスが知りたかったのは、その名ではなく男の正体である。ロユラスに語りかけようとしたサレノスは、突然驚いたように周囲を見回した。館を包囲するように集まった漁村の人々が、武器になりそうなモリや櫂を手にして、フェリムネを守るために集まってきたのである。サレノスは肩をすくめて苦笑いしながら言った。
「やれやれ。こうなることを避けるために、兵は村の外で待機させておいたのですが」
二百人ばかりの兵を率いて、都バースに向かう途中この館に立ち寄った。血なまぐさい気配を避けるためにほとんどの兵は村の外に待機させ、手兵だけを連れてフェリムネを訪問したというのである。
集まった村人たちから、フェリムネに害をもたらす者は許さないという真摯な気配が伝わってくる。
(フェリムネ様への忠誠心とも言えまい。信頼、敬愛、信仰、どう呼べばいいのか)
サレノスは彼らを眺めてそう考えた。彼自身、村人と同じ経験をした。先の遠征の戦いで、彼が出会った頃のフェリムネは、蛮族の娘に過ぎなかった。混戦の中で、リダル王が負傷して部下ともはぐれた。その後、ようやくリダルを探し当てたサレノスらは、リダルの傍らで彼を介護するフェリムネに出会ったのである。娘にとってリダル王は敵と言ってもよかった。彼女はその男を甲斐甲斐しく介護し、その心根に偽りはなかった。そう言う分け隔て無い優しさを持った希有な女性だった。病癒えたリダル王は傍らに彼女を置いた。アトランティス軍の遠征で土地は荒れ果て、食料を得る当てはない。当時の彼女には幼い弟がおり、彼女はその弟を食べさせるために、敵のアトランティス軍と行動をともにしたらしい。
王が傍らに置く女ということで、アトランティス軍将士が、彼女に接する態度は丁寧ではあったが、その裏には蛮族に対する侮蔑も秘めていた。ただ、そんな侮蔑も気にする様子はなく、故郷を遠く離れた兵士たちの愚痴を聞いていたかと思うと、時に傷病兵を母のように世話をした、兵に対する態度が冷たいと王に姉のような口調で叱咤することさえあった。いつしか、彼女は荒々しいアトランティスの将士たちの信頼を勝ち得ていた。サレノス自身、いつしか彼女をフェリムネ様と敬意を込めて呼んでいる自分に気づいたのである。
いま、集まってきた村人たちは、昔は海賊働きもしたという、兵士に劣らぬ荒々しさをもった人々である。リダル王の子を身ごもって王とともにこの地にやってきた彼女は、いつしかこの村人たちからも敬愛される存在になっていたに違いない。
フェリムネを守るために武器を手にして集まった村人だったが、敵意を感じさせないサレノスに困惑した。サレノスは苦笑いをして言った。
「では、さっさと退散することにいたしましょう」
「御武運を」
フェリムネはその老将軍に短い言葉をかけたが、手柄を立てて欲しいというのではなく、老人をいたわるように無事の帰還の願いがこもっていた。サレノスはふと立ち止まってロユラスを振り返った。
「ロユラス様。いずれ、時期も巡って参りましょう。御身を大切にされますよう」
老人は笑いながら馬上の人となり、五人の手兵を連れて去った。
(時期が巡ってくる?)
老武将の言葉の意味も分からないまま、ロユラスは言葉を繰り返して呟いて老人を見送った。距離を置いてみれば、意外に小柄な老人で、ロユラスは彼の包容力に包まれて、自分自身が縮こまっていたのに気づいた。村人たちも同じだろう。サレノスに向けていた危険人物という表情が今は失せ、驚きとともに自然に包囲を解いて、サレノス主従を通した。敵ではなかったらしい、しかし、これから兵を率いてリダル王の元で戦うつもりなのに違いない。ロユラスの目がサレノスに向ける視線が冷ややかなのは、あの男もリダルの配下だということである。彼は父に対する憎しみや侮蔑を持ち続けていた。




