ソウソス川上流より
【急ぎなさい】
ロユラスがギリシャ人たちを叱咤しながらソウソス川の河原にたどり着いたのは、正午を過ぎた頃である。河原に人影はない。ロユラスたちは、救い出したギリシャ人たちに水を飲ませ、休憩を取らせた。ただ、彼らは行き止まりで、身を隠す場所もないこの地に不安を隠せない。
間もなく、不安は現実になった。
【兵士たちだ。ウィアーテ街道の合流点に姿を見せたぞ】
そう叫んで駆けてきたのは偵察のために街道に残してきたアイネアスの仲間である。騙されたことに気づいて戻ってきたということだろう。辺りを調べてギリシャ人の捕虜が逃げたことに気づけば、その逃げる方向はマキツキ街道を北上するほか無い事を悟って追ってくる。間もなく、それを知らせる仲間が駆けつけてきた。
【大変だ。兵士どもが八十人ばかりこちらに向かってくる】
フローイ兵の指揮官が連れ戻った兵士たちの一部をウィアーテ街道の探索に残し、大半の兵を率いて、捕虜たちが逃げた可能性が高いマキツキ街道を北上してくるのである。
【ダメだ。ここにいれば皆殺しにされる】
誰かの叫びにアイネアスが悲痛な声を上げた。
【ヴァレリアたちは何をしてるんだっ】
【これが、この者たちの限界か】
ロユラスは密かにそう呟いていた。限界。時間でも、人数でも、迫り来るフローイ兵という状況ではなく、目の前にいるギリシャ人たちのことである。ヴァレリアとその部族、クセノフォンやダミアノスたちの人柄が妙に心地よく感じられ、ロユラスは彼らに捕虜を救出する計画を提案した。ここまでは想定を上回る順調さだったが、ギリシャ人たちの動きは、ロユラスの計画を達成するには及ばなかったらしい。この河原に姿を見せるはずの者たちの姿がない。ロユラスは冷静に彼らを眺め、その彼らの姿を限界と称したのである。
しかし、この者たちを見捨てるわけにも行かず、ロユラスは頭の中で次の策を練っていた。あとは、河原から街道に戻り、やや北にある小道からアイアネスの集落を目指す。険しく曲がりくねった道や斜面を登り、老人や負傷者や子どもたちはついてこれずに脱落するだろうが、それも、追ってくる兵士の足止めの役に立つ。体力のある者たちだけでも救えるだろう。
ロユラスにすがりつくような視線を注ぐ捕虜たちに罪悪感を感じながらも、彼らを見捨てる決断をしかけていた。
【フローイ兵の姿が】
河原から街道へ偵察に出ていたギリシャ人が駆け戻って来てそう叫んだ。敵はいよいよ姿が見える位置まで戻ってきて彼らを追い始めたのである。これ以上、一刻の猶予もなかった。険しい傾斜を登ってアイアネスの集落へ。ロユラスがそう指示を出そうとした時、アイアネスの声が響き、ギリシャ人たちの喚声が広まった。
【ヴァレリアとマカリオスが戻ってきた】
ソウソス川を流れ下ってくる幾艘もの筏の先頭でヴァレリアとマカリオスが手を振っているのが見えた。アイネアスに助けを求めに来たダミアノスが、ヴァレリアとマカリオスの手助けを得てソウソス川上流の部族の協力を求めるのに成功したということである。
救援の者たちが現れたという感動の余韻に浸っている時間はなかった。アイアネスたちは次々に川辺に着く筏に、救出した仲間を乗せて、川の流れに戻した。ロユラスが最後の筏にアイアネスと共に乗り、岸辺を離れた時、追っ手のフローイ兵たちが河原に姿を見せるのが見えた。
筏の上の人々が身を伏せたのは、そのフローイ兵たちが弓を手にしているのが見えたからである。ただ、ロユラスのみ、筏の上に立ったまま、兵士に向かって手を振り、今回の悪くない商売に礼を語るように丁寧に頭を下げて見せた。兵士たちはそのロユラスめがけて盛んに矢を射たが、ロユラスに届く矢は少なく、川面の流れに乗って筏と共に揺れるロユラスに命中する矢もなかった。ただ、危険には違いない。
【ロユラス。お前も伏せろ】
アイアネスがロユラスの首根っこを掴んで伏せさせた時、ロユラスはフローイ兵をからかった楽しさを見せるように笑っていた。ギリシャ人たちはそのロユラスの様子を彼の剛胆さとみた。ロユラス自身にはよく分からない。この世界と自分自身をあざ笑うように無謀な危険に身を晒したくなる。ただ、この癖はやがてロユラスに悲劇的な運命をもたらすことになる。
ロユラスは筏の上にあぐらをかいて座り込み、辺りを見回した。
(これが、この者たちの限界か)
先ほど考えたことを、周囲の者たちの笑顔を眺めて、訂正せねばならないと考えていた。筏を造って救出に来た部族の者たちは、川の上流でフローイ人に気づかれることなく平和に暮らしていたに違いない。筏を流したことで、この上流に逃亡奴隷が居ることに気づかれてしまった。彼らは住み慣れた場所を離れて、新たな場所に身を隠さなければならないだろう。そういう不都合を甘んじてでも、仲間を救い出す決意を固めたと言うことである。アイアネスやクセノフォンも同じく自らの安全のためにダミアノスの集落の者たちを見捨てることも容易だったがそれをしなかった。
この時のロユラスは、感心しつつも彼らの姿を冷静に観察していた。




