智子のこと
あの頃、僕らは、何も見えない未来におびえて,
壁を乗り越える勇気さえないまま、毎日を過ごしていたんだ。
いくつかの時を過ごして、やがて大人になれば、
それは遠い昔の思い出として、少し甘酸っぱい香りを残したまま、
心の片隅の小さな箱の中にしまわれていくんだろう。
あの頃の僕は若すぎて、
彼女が心に抱いていた「悲しみ」とか「恐れ」みたいなものに、
気付きもしなかった。
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「圭はいいいよね」
バイトからの帰り道、智子は突然そんなことを言い出した。
「なんだよ、俺なんか別に何もいいことなんてないよ」
僕は斜めに振り返るみたいにして、彼女を見た。
智子は1歳歳下の高校二年。
バイト先で知り合って、時々こうして一緒に帰る以外は、
特に付き合いが深いわけでもなかった。
「だってさ、卒業したら大学行って、好きなことして遊んで楽しそうじゃん」
「大学か...」
その頃の僕は、「大学に行って、普通のサラリーマンになって」という、
なんとなく親の敷いたレールの上を歩いていくような、
そんな生き方がしっくりこなくて、
「自分の道は自分で切り開く」みたいに強がりを言いながら、
内心は、まだ見えぬ未来に現実を知らされることの恐ろしさにおびえて、
なにひとつまともに続けることができずに毎日を無気力に過ごしていたんだ。
「オレ、大学、行かないかも...」
「え?どうして?」
「わかんない。親は行け行けって言うんだけど、
なんとなくそういう生き方って、ちょっと違う気がして」
「ふ~ん」
智子は、鞄を後ろ手にぶら下げて、つま先を見つめるようにしながら歩いていた。
「おまえは?」
「なに?」
「なんか、夢とかあんの?」
「あたし?」
「うん、おまえ三年になったらさ、進路とか、もう決めなきゃだろ?」
「進路か~」
「まあ、いまだに進路決まってないオレがこんなこと言うの、ちょっと変か?」
智子は「確かに~」って言って、少し笑いながら、少し僕の前を早足で歩き始め、
突然何か思いついたみたいに立ち止まったと思ったら、クルリと振り向いて言った。
「ねえ、クレープ食べてかない?」
「あ、うん、いいけど...」
彼女が、そんなことを言い出すのは意外だったので、僕は少し驚いた。
そうして僕たちは「ホワイトハウス」という、小さなクレープ屋に入ったんだ。
「ねえ、聞いてくれる?」
智子は、クレープを食べながら、そんな風に切り出した。
「あたしってさあ、頭悪いし、別にスポーツが得意なわけでもないし、
かと言って絵とか音楽とかうまいわけでもないし」
「はは、そうか?」
「なんか、この先、どうなっちゃうんだろう~って、ちょっと落ち込むんだよね」
僕は、クレープを口いっぱいに押しこみながら、
「でもさ、みんな、そんなもんじゃねえの?」
「圭はさ、絵、上手なんでしょ?」
「お前、なんでそんなこと知ってんの?」
「へへ、調査済み」
智子は、そう言って鼻の上のあたりに小さなシワをキュッと寄せて笑った。
「あ~あ、なんか、生きて行くってめんどくさいな」
「なんだよ、それ」
「なんとなくね~、最近、ちょっとそう思う」
「お前さ、なんか、悩みでもあんの?」
僕は、コーラをグイッと飲んでから覗き込むみたいにして聞いてみた。
「別に悩みってほどじゃないんだけど」
「なんだよ、言ってみろよ」
「う~ん、ただ、親とかうるさいし~」
智子は、紙ナプキンを几帳面に折りたたんで何かを作りながらボソッとつぶやいた。
「見て、カエル」
彼女は、紙ナプキンでつくったカエルを二、三度指ではじいて僕の顔を見て笑った。
「あたしなんかさ~自分ひとりで生きてゆく力なんかないし、
将来、暗いなあって思うんだよね」
僕は、なんとなく、智子の気持ちがわかるような気がした。
「お前さ、なんか、好きなこととかないの? やりたいこととか」
「うん...思いつかない」
「なんでもいいからやってみりゃいいじゃん」
「あたしさ、取り柄ないしさ...」
「やってみなきゃわかんないじゃん」
智子は、頬杖をつきながら窓の外をボーっと眺めていた。
「せめて何か、ひとつでもいいからさ」
「ん?なに?」
「うん、せめてひとつでも何か取り柄があればね」
「取り柄?」
「うん、何かひとつ取り柄があれば、それを支えに生きていけるんだけどね」
智子は、すこし投げやりな感じでそう言った。
「取り柄か...」
「うん...あたし、何かあるかなあ...」
彼女は、僕に答えを求めるわけでもなく、ただ独り言みたいにそうつぶやいた。
「あ!お前さ」
「なになに?」
智子は、身を乗り出して、僕を見つめた。
「お前、女なんだから、子供産めるじゃん。ははは」
「バカ、そんなのあたしじゃなくたってできるよ」
彼女は、アイスティーをクルクルストローでかきまぜて一気に飲み干した。
「いや、子供産むってすごいことだぜ、少なくとも俺には絶対できない」
「何言ってんの? バーカ、ぜんぜん真面目に答えてないじゃん」
「なんだよ、真面目に答えてるじゃん」
僕がそんな風に言うと、「あ~相談すんじゃなかった~」
とつまらなそうに立ち上がって、
「じゃあね」と言ってひとりで帰ってしまった。
その時、僕は、自分のことで頭がいっぱいだったから、
それ以上、智子とその話題に触れることはなかった。