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青の終わり2





普段なら痛まないような場所ばかり痛むのが煩わしく、ぼんやりと目を覚ました。

怒涛のような一連の行為はただ痛かっただけで、不思議と涙はない。

激情を揺さぶるものではなかったようだ。


(海藤、どこ行ったんだろ)


視線だけを巡らせて、真っ先に視界に入ってきたのは見覚えのある背表紙。


『届かなかった手紙』


海藤が、お母さんに料理を作って、交流を持つきっかけになったと話してくれた。

それほどの影響を与えることが出来たのが自分が贈った本だと思えば少しは慰めになる。

混乱して一つも感情が整理出来ない今では到底無理だろうけど、いつかは懐かしさとともに思い出してみたい。

現実逃避のようにそんなことを思った。

しゅんしゅんと鳴る機械音がして顔だけそこに向けると、黒いレトロなストーブの前に脱ぎ捨てられた私の紺色のコートがあって、その隣に見慣れた焦げ茶色のショルダーバッグがある。

さらにその隣には、見慣れない、ナイロン生地の黒いジャージ。

ひどく落ち着かない気分になった。一緒に折り重なっているロゴの入ったトランクスは、どう考えてもここの家主のものだったからだ。

気付けば、じんじんと痛みを訴える下半身に不快感はなく、何かで拭われたのだとすぐに分かる。乱れていた着衣も恐る恐る確認すればどこにも変な様子はなくて、他に思い当たる人もいないから全て海藤の仕業だろう。

自分が意識を失っている間に彼がそんなことをしていたと思うと羞恥で身体が熱くなり、さっき奪われてしまったものの一部始終を思い出せば、もっと居た堪れなくなって頭を振った。


(考えるの、やめよう)


振り切るように起き上がって見回せば、部屋には誰もいなかった。振り子の時計を確認すると16時をいくらか過ぎたくらいだ。それほど時間は経っていない。

海藤はどこかに出掛けてしまったのか物音一つしない。物騒だなと思う反面、私1人を残して出かけるくらいには信用してくれているのだろうかと、未練がましいことを思った。

いつまでもこうしているわけにはいかない、帰らなければと、海藤が帰ってくる前に支度を済ませるため急いで準備をした。正直に言って何か物が挟まっているような感じがまだするので、歩くのも難しそうだったが我慢するしかない。


(本……返してもらうのは無理そうだな)


私が気にせずとも、海藤なら自分で処分するかもしれない。そう思うと気が楽になったが、どこかで後悔を覚えていることは否めなかった。贈った方の本にある、「もう一つの真意」が無駄になるかもしれないことに、落胆を覚えたからだ。どうかしていると思うが、体を奪われた所で、彼へ対する好意が失われたりはしていない。それこそが一番厄介な展開だと分かってはいたが、自分でどうにかできるものでもなかった。

仕方がないと片付けてコートを着込み、よろよろと力の入らない足を叱咤しながら玄関へ辿り着く。

靴を履こうと屈んだところで、ふと、不自然な点に気付いた。


(あれ?この靴……)


玄関に下ろされている、見慣れた赤いスニーカー。

海藤が普段愛用しているものだ。

さっき外出した際にも履いていたはず。

はっとして、思わず振り返っていた。

まったく人の気配の無い部屋。

けれど、狭いながらも他に幾つかのドアは見受けられた。

まさかと考える。

突っかけとか、そうした簡単なサンダルを履いて出た可能性もある。

けれど何故か私は、海藤がこの家のどこかに居るのだと確信していた。そうして、それこそが、やはりさっきの乱暴な彼も、海藤のほんの一部分に過ぎないのだと、知らしめてくれたような気がして。


「海藤くん……今まで、ありがとう」


思わず言っていた。

きっと顔を出さない彼もまた、海藤の一部でしかないのだろう。怒りの感情に任せて言ったさっきの侮蔑の数々も、償いと称して優しく施した抱擁も、キスも、手を繋いだこともきっと、全部、偽りなんかじゃなかったのかもしれない。

彼は私と同じく、ただ臆病だっただけなのかもしれない。

そんな弱さを最後に見せてくれたことを微笑ましく感じながら、私はとうとう決定的な一言を、はっきりと口にした。


「さようなら」


そうしてアパートを出て、二度と振り返らなかった。

涙を流したところで、もう慰めてくれる手はどこにも無い。でも、それはずっと止まらない。どれだけ寒くても、隣で海藤が取り留めのない話をして歩いてくれていた帰り道は、心が温かくなった。これからは、もう感じることもない温度だろう。

そう思ったら、その喪失感の容赦の無さにぞっとして、けれどどこかで救われた気持ちもあった。

コップ一杯にも満たないものだったかもしれないが、確かに在った彼からの信頼を、私は踏み躙った。その引き換えだとしたら丁度良かったからだ。


「痛い」


股の間がじんじんする。

喜びでも苦しみでもない、喚き出したいこの気持ちを、痛みだけが軽減してくれる。

帰り道が長いのは、こうなっては有難いことだったかもしれない。

吐く息を手で覆うことで涙を隠した帰り道は、ひどく寒々しかったけれど。







「随分良くなってるじゃない、杉田さん!」


推敲と改稿を繰り返した原稿用紙を一気読みした関川部長は、ズレるメガネをくいっと上げながら言った。その、いかにも感に堪えないといった一言が嬉しくて、引きずられるように上ずった返事をしていた。


「本当ですか!?」

「うん、ここ2ヶ月くらい随分と煮詰まっている印象を受ける作風の話ばかりだったから、正直に言って今回もあまり期待してなかったんだけど、これは快作よ!何かの賞に応募してみるべきだわ!」

「そ、そんな、そこまでのものじゃ……」

「謙遜は時と場合によって人生の選択肢を誤らせるよ!この話の主人公達だって、素直になれたことで先へ進んだじゃない。杉田さんにとっても、素直になるべき時は今だと思うよ、私は」


バシバシ、と背中を叩く部長に鼓舞されたからか、不思議と強気な自分が顔を出した。当たって砕けろで、いいにしろ悪いにしろ、自分の力を試してみるのは大事なことかもしれない。


「分かりました。何か、この作品と趣旨が合うような賞に応募してみます」

「うん、その意気だ!いやぁ〜、やっぱりハッピーエンドってのは気持ちを高揚させてくれるねぇ〜」


ははは、と笑う部長にこちらも嬉しくなりながら、物語の主人公達に思いを馳せた。

作品は「青の終焉」という題名の異世界ファンタジー。

以前、交流会で部長に見てもらった、異種族の男女が主役の恋愛小説だ。

タイトルこそ「終焉」だなんて暗い印象のものだが、内容は以前とガラリと変わって、自分達の恋を勝ち取るため、離れ離れになりながらも様々な運命に立ち向かうというサクセスストーリーに改変されている。

彼らは周りを不幸にすると分かっていながらも、2人でいるためにどんな苦難も受け入れ、乗り越えて、最後には再会を匂わせて幕を閉じる。

ある側面では結ばれていないと言えるが、前と違うのは2人の心が重なり合っている所だ。

会えたのであれ、そうでなかったのであれ、彼らは互いを想う気持ちを信じ、努力し続けた。

そんな2人に、周りの登場人物達もいつしか頑なだった心を動かされ、協力しようと立ち回る。物語は、そんな、2人の周りの状況も幸福に近いものへ変わったことを知らしめて終わりを迎える。

すれ違ったまま再会を果たさず終わる前回と、そこがもっとも違う箇所だ。


(自分の状況はまったく逆なのにな)


これを書き上げたのが、あの、海藤と別れた次の日のことだったというのがなんとも皮肉な話だ。筆者の状況が最悪だと、せめて物語くらいは救われてほしいと慰めを反映するんだろうか。


(……ううん)


むしろ、逆かもしれない。

物語は現実と違って、自分次第でどのようにも動かせると悟ったのだ。

どうにもならないのは現実のみ。


(それに、恋がどんなものか、わかったからだ)


臆病な私は結局あんな中途半端に終わってしまったが、開花した恋の力が、偽りといえどれだけ強いものかを知ってしまった。それはきっと、決まってしまった運命を変えてしまうくらいの力すら有していたかもしれない。

なにせ、自他共に認める引っ込み思案の私が、よりによってあんな、自分とまったく合わなそうな海藤に色々望んで期待してしまったほどだ。天地がひっくり返るくらいの出来事も普通に受け入れられるだろう。

そういう諸々を、ここ二ヶ月ほど海藤と過ごしたことで知って、消化して、……あわよくば辛い気持ちを誤魔化すために黙々と書き上げたのだ。自分でも不思議なのが、そこに屈折したものがあまり含まれなかったことだが、きっと書き続けるうちに何かが報われたのだろう。

あまり深くは考えなかった。




「でもさー、勿体無いよねえ」

「なにが?」


文芸部の帰りに一緒になった舞子と電車を待っていると、はあーっと隣でため息をつくので問いかけた。


「だからぁ、あんたの元カレよ、元カレ。あんなイケメン捕まえて2ヶ月経たずにサヨナラなんて、すっごいモッタイナイ」

「あぁ……」


彼女にデリカシーというものはあまり無いし、そんなことを気にする間柄でもないので、ことあるごとにその話題を振ってくる。

舞子にはカフェでのアフター5を潰してしまった責任もあり、多少脚色して海藤との関係を説明してあった。


「しょうがないよ、彼女いるの承知で、頼み込んで付き合ってもらってたんだもん。期間限定のお試し。試食みたいなものだよ、私」


もちろん処女を捨てたことは自分の名誉にかけて言わないでおく。


「うーん、ま、そうだけどォ、なんっかしっくりこないんだよなぁ」

「しっくりこないって、どの辺が」

「いや、だって、あんたをあたしの前から連れ去った時の元カレさぁ、どう見てもあんたしか目に入ってなかったよ?」

「な、なにそれ、そんなのどうやって舞子がわかんの。あり得ないよ」


到底信じられない話だったからつい声が上ずってしまう。ていうか、まだ傷の癒えきらない内に疼くようなこと言うのはやめてほしい。


「だから信じられなくてあんたに聞いたんでしょーが、週明けに!『あんなイケメンどうやってゲットしたの』って!私を邪魔そうに見てさ、早くあんたと二人きりになりたくてウズウズしてる目だったよあれは。完全にお邪魔虫にされたよあたし!」

「またまたぁ〜」

「むしろなんであんたが気付かないわけ︎鈍いのもここまで来ると暴力だわ、ウザい!ムカつく!ついでに先越されて悔しい!」

「ひ、ひっど……」


散々な言われようだが、舞子の長所は怒りを後に引かないところだ。その代わりちょくちょく感情が爆発するところが短所だが。


(多分それは……言いにくいっていうかいまだに信じられないけど、きっと、その、……欲情?ってやつだったんだろうな)


別れを告げてからというもの、駅のホームでも、よく二人で帰った川沿いの道でも、海藤の姿を見かけることはなくなった。顔を合わせづらいのはお互い様だろうし、それで困るようなことはなかったから、寂しいけれど仕方ないと納得している。

それに、会ったところでどんな顔をすればいいのか分からないのも正直なところだった。


「本命いたんだもん、仕方ないよ。浮気するのって男の人の甲斐性だとかよく言うでしょ?魔が差したんだよきっと」

「あんたはどこぞのOLか。なんでそんな達観できるわけ?まだ若いんだから、少しは粘れば良かったのに。多分体とか使えば落とせたよ〜あれは」

「(一応使ったというか使われたというか……)はしたないこと言わないでよ。私達は、その……始まりが良くなかったから。……とにかく、私ももうちょっと健全な恋愛したくなったの。蒸し返さないでよ」

「はいはい、じゃ、そういうことにしといてあげる」


ジト目で見られながらも舞子が引き上げてくれたので、その話はそれで終わった。

そして、その絶妙なタイミングを見計らっていたかのような間合いで、見知らぬ女子生徒が突然割って入ってきた。


「○○高の杉田摂子って、あんた?」

「はい?」


サラサラの明るい長髪に目元くっきりのメイクを施した、どう見てもお知り合いでは無さそうな他校の美人女子生徒二人組だ。

「これから因縁をつけます」とはっきりと書かれている顔つきで、彼女たちは私へ視線を合わせている。


「あんたでしょ?ヒサにちょっかい掛けてた勘違いバカ女って!」

「は?ちょっか…い?あ、の……話が、よく……」

「とぼけたってムダ。あんたがヒサを連れてったの、麗奈が見てたんだからね!」


喧々囂々の勢いに押されながらも、どうやら海藤久成がらみの女の子たちだとようやく思い至る。一カ月弱といえ、確かに堂々と二人きりで出歩いていたのだから、否が応でも注目を浴びていただろう。それに関連する批難であれば、甘んじて受けなければならない。

曲がりなりにもあの時は付き合っていたのだから。


「そう……です。私から言って、海藤君と一カ月だけ付き合ってもらってました。でも、もう別れましたから。それであなた達に迷惑がかかるようなこと、無いと思うんですけど」


おお~、と大げさに驚く声が斜め後ろから聞こえてきたので舞子だと察した。

彼女は要領が良いので、こういう場面は決まって一歩後ろへ退避する習性があった。

驚いたのは、きっと私が強気な態度へ出たからだろう。

自慢じゃないけどメンチ切ったことなんか過去一度として無かった。

「はぁ~~~ムカツク。こういう女って、私は被害者です~って顔して、絶対に自分のせいだって思わないよね、酔っちゃって。きっしょくワリ。あんたみたいなのと付き合ったせいで、ヒサがどうなったか知ってる?」

「いきなり、転校だって言われて、あたし達本気でアイツ好きだったんだよ!どんな気持ちか分かる?ねぇ!なんでアンタなの!?なんであたし達じゃダメだったの、意味わかんない!」


今度驚いたのは私の方だった。


(転、校?)


この人たち、何言ってんだろ。

海藤がてんこうって言った?今。


(私の……せい?)


もしやあれか、この前のバレンタインの淫行がどこかから情報漏洩して刑が下った、とか?


(いやいやいや)


まず私がカミングアウトしないことにはその可能性はないだろう。

でも思い当たることと言ったらそれしか……


「母親が再婚して引っ越すからだって言ってたけど、アイツ、この前まで『母親とは離れて一人で暮らす』って言ってたんだよ!?それが、今になってガラっと意見変えて……!アンタのせいだとしか思えないんだよ!」


栗色ロングの美人の内、可愛い系の子の方は、かなり必死な形相だった。恐らく本気で彼を好きだったのだろう。


「言いなさいよ、アンタ知ってんでしょ、ヒサがどこ行くのか!いきなり、今日、当日になってお別れ……とか……あり得なさ過ぎでしょ……!」

「アヤ……しっかり……」

「ありがと、美朱……」


慰め合う二人の姿を見てすぐ、私は彼女たちを追い越して駆けだしていた。


「ちょっと摂子ォ!?」


舞子の呼ぶ声が聞こえたけど、止められない。

止まることなんかあり得なかった。


(今日?……今日!?引っ越す!?もう……会えない?)


頭の中で、ぐるぐると堂々巡りの自問自答が占拠する。

海藤の行き先なんてもちろん分からないまま、ありったけの力を振り絞って足は前へと進んでいった。











いよいよ次でシリーズ最終回です。




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