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青の終わり1

「緋に咲く青」の続き。

クライマックスです。







決戦の日はバレンタインデーだった。

海藤からの提案で、紛うことなき恋人達のイベントの日に、私は海藤宅にお邪魔することになってしまった。

口から心臓が飛び出るくらいド緊張な展開だったけど、私の思いを告げるには打ってつけだ。

これで紛い物の関係に終止符を打つ舞台は整った。


(そう、終わりに……しなきゃいけないんだ)


それが自然だ。

そもそも「償い」なんて、あり得なかった。

海藤がウチに謝りに来た時点でそう告げるべきだったのに、血迷ったのは私の罪だ。






*青の終わり*






渡された簡易の手書き地図を頼りに、見慣れない住宅地を歩く。

ひしひしと実感し始める別れの辛さを抱えつつも、それでも最後の大見得を切らなければならない覚悟で踏ん張り、なんとか目的地へ辿り着いた。

そこは、思っていたより年季の入ったアパートで、てっきり金持ちのドラ息子をイメージしていた私は拍子抜けしてしまった。

何しろ海藤が普段身につけているアクセサリーや服などは垢抜けていて、とてもその外見から今目にしている住居を想像することはできない。

木造の古い二階建ては、今にも傾きそうなほど率直に言ってボロかった。


「よー、早かったな」


まじまじと見ていたら、後ろから声がかかった。

海藤だった。


「海藤くん。あれ?どうして…」

「ウチなんもねーから、コンビニで菓子買ってきた。さすがに客に水しか出さねーとか、いくらあんた相手でもな」

「そんな、いいのに」

「俺の問題だから気にすんなって。それより寒いだろ、中入れよ」


まったく緊張した様子のないいつもの海藤は、カーキ色のダウンジャケットに黒いナイロンのジャージという、新鮮な格好だった。いつも決めすぎなくらいビシッと決めている私服に見慣れていたので、私生活のラフさを目の当たりにすると、なんというか、そう、その……惚れ直してしまいそうになる。


「じ、じゃあお邪魔します」

「ああ」


視線を逸らしがちに海藤の後に続くと、階段の影の一階右端が自宅らしかった。ポケットから鍵を取り出して開けようとして……


「海藤くん?」

「…………」


動きが止まった。

どうしたのだろうと見ていると、扉の向こう側から女の人と男の人の笑い声が聞こえてきた。ご両親だろうか?


「わりぃ。客来てるみてーだからしばらくその辺歩かねぇか?」

「え?わ、私は大丈夫だけど……」


硬い表情で海藤は鍵をポケットに仕舞い込むと、その辺の小石を拾って思いっきり振りかぶり、ドアへ投げつけた。


(え!?)


ガツン!と物凄い音が響き渡る。


「か、海藤くん!?」

「杉田、行くぞ」


右の手首を掴まれ、強引に引っ張られていく。後ろの方で、中から出てきたらしい母親っぽい人が「ちょっと、ヒサぁ!?」と叫んでいたけど、海藤は一度も振り返らず足を速めるだけだった。


「い、いいの?あの人、お母さんじゃ……」

「…………」


海藤は答えなかった。聞かれたくないことだったのかもしれない。

海藤に手を引かれて見慣れない道を歩きながら、私はどうしようと途方に暮れた。

とても別れを切り出すような空気ではなくなっていた。




近くにあった公園のベンチに着いたら、海藤が座るように促してきた。コンビニの小袋から暖かいお茶を手渡され「ありがとう」と受け取る。「いや」と答える海藤はやはり無表情のままだった。


「いつもならあのババア今頃店行ってんだけど、男連れ込んでたみてーだわ」


悪かったな、と衝撃の事実をさもなんでもないことのようにサラっと告白されて、なんて言っていいのかなんて分からなくなる。

人様の家のそんな込み入った事情を打ち明けられるのは初めてのことだった。

暖かいお茶のペットボトルを握ったままでいると、海藤はベンチの端っこの方に、私と微妙な距離をあけて座った。


「俺んち、父親いなくてさ」

「うん……」

「どこで何してんのかしんねーけど、たまにふらっと帰ってきて金せびってまたどっか行って。そんなんだから母親は昼パートで夜水商売。……さっきのは夜の方の客だな、多分」

「そ……なんだ」


隣をちらりと伺うと、海藤もまた私と同じようにペットボトルを握ったまま、地面に目を伏せている。


「もう少ししたらあいつら居なくなるから、それまでここでいいか?」

「うん」


寒いのを気遣ってくれているんだろう。

外見とは裏腹の優しさを、私はもう意外に思ったりはしなかった。


「お茶、ありがとう」

「いや、別に……」


気遣ってくれたことへの気持ちも込めて言ったら、こちらを一瞬見た海藤は素っ気なく言ってまた地面に視線を戻した。なんだか気まずくて、カバンの中に押し込めたプレゼントを妙に意識してしまい、そわそわし始める始末だ。

タイミングを見出せなくて焦る。

少なくとも、言い出すのは今じゃない気はするけど、このままじゃずるずるとその機会を逃してしまいそうだった。


「聞かねーんだな」

「え?」

「だから、ウチのこと。……ま、あんたにはどっちみち関係ねーか。俺のことなんか」


かなりプライベートなことだし、踏み入っちゃまずいのかなと流していたら、逆に聞かれてしまった。これはもう、完全に私の都合を優先している場合じゃない。彼女だ、私は今曲がりなりにも海藤の彼女なんだから、その態度を貫くべきだ。そうして思いついたのは、海藤の印象についてのさっきの感想だ。


「あのね、なんだか海藤くんが……大人びて見えて」

「はあ?なんだそれ、どっから出てきたわけそんな評価」


素っ頓狂な感想だったらしく、なんだか引かれてしまった。

うう……そんなに変だったかな?


「ウチの家族ってすっごく普通で。……人に自慢できるような所も無ければ、貶すような不幸話もない、ほんとに普通の家族。だから、海藤くんも、なんの不思議もなく私と同じだって思ってた。……それどころか、私よりいいお家に住んでるんだろうなって思ってたから」

「は。さぞ期待はずれだったろ、あんな貧乏そのものの家で」

「ううん。なんていうか、すごいな、って感心しちゃった」

「ああ?喧嘩売ってんの」

「ち、ち、違うよ。その、うまく言えないんだけど、海藤くんて、全然苦労してるように見えないから。……あ、あの、これ、褒めてるのね。ほんとに。あの、貶したいんじゃなくて」

「……分かってるからいちいちビクつくなよ。そんで、俺の何がすげーって?」


膝に頬杖をついてる海藤は、下から睨めあげるように見てくるのでちょっと怖い。


「私……もし、お母さんが毎日あんな風に、お父さんじゃない男の人と一緒にいられたら、とても平気な顔して学校になんか行っていられない。少なくとも、元気に笑ったり出来ないって思う。家にだって帰りたくなくなるだろうし。……だから、そんな、私だったら絶対我慢出来ない毎日を、なんでもないように過ごしてる海藤くんは大人だなって。私なんかよりずっと色んな感情を知ってるんだろうな、って思って」

「…………」


な、なんだか胡乱な目で見られてる。的外れなこと言っちゃったかな。


「……そっか。大人か、俺って」

「え?う、うん。失礼かもしれないけど、私は凄いな、偉いなって思うよ。海藤くんのこと」


ここぞとばかりに褒め上げたら、海藤は私から視線を逸らして、前方をぼーっと見ている。

怒ってはいないようだったから取り敢えずほっとした。


「お前から貰った、あの本」

「え?」

「『届かなかった手紙』ってヤツ」

「あ、ああ、うん」


私が落としたのを海藤が拾って、そのままあげちゃったやつ。

一瞬、これから言おうとしてることを見透かされたのかと思ってどきりとした。視線が鞄の方へと無意識に彷徨う。


「あれ読んだらさ、なんか感化されたのかしんねーけど、珍しくババアにメシ作ってやろうとか考えて」

「へえ!凄い!えらいね!」


正直、海藤に自炊のイメージは全くなかったけど、母子家庭だと判明した今なら意外でもなんでもない。もしかしたら私なんかより上手なのかもしれない。


「……自分でも気味悪ぃって思ったけど、別に嫌なことでもなくて。作ってやったら煩いくらい喜んでさ。ああいう家族っぽいの、俺ら久しぶりで。……で、なんか、そっから本だけじゃなくて、あんたにも興味出て」

「私……?」


そういえば償いたいと言っていたその方法は、当初は本を読むことだったと言っていた気がする。


「その目に」


そう言って、海藤は私の頬辺りに手を伸ばしてきた。冷たい手が、ひやりと押し当てられる。

いつの間にか海藤は離れていた距離を詰めている。

覗き込んでくる鋭い三白眼の瞳の中には、冴えない女の顔が映っていた。


「俺が、絶対に手に入れらんないもんが、そん中にある気がして。考えてみりゃ当然だったんだよな。住んでる環境も立場もあんたと俺は何もかも違う。同じもんなんか、あるはずなかった。……だからあんたを知ればそれが手に入るって思ったのかも……って」


それは、もしかして海藤の「望み」だったというのだろうか。


「買いかぶりすぎ、とかまたあんたは言うかもしんねーけど、……あんただって、俺からしたら」

「海藤、くん?」


そこで海藤は顔を逸らし、「わりぃ、変な話した」と、忘れろと言って立ち上がった。


「……あんたが償いの代償に俺と付き合うこと出してきたの、なんでだろうな、って最近考えてる。……だから変になるんだ」

「海藤くん?それ……」


どういう意味、と聞こうとしたら、ぐいっと腕を引っ張られて立ち上がっていた。距離が近くなったその顔は、少しも戯けた様子なんかなくて、胸が大きく高鳴ってしまう。


「あんたは……先に進みたいとか言ってくるくせに、俺に何も望まない。それが少し……悔しいんだよ」

「そ、それは、その」

「おちょくって復讐でもしたいのかって探っても、全然手応えねーし」

「そんな、復讐なんて、そんなつもりは無いよ、絶対」

「……なら、こんなもん少しも『付き合ってる』なんて言わねーよ」


海藤の言ってくることは、やっぱり全部本当だった。

結局私は、最後まで悪役になんかなりきれなかった。彼女になりきることだって。

当たり前だ、私は単に海藤と親しくなって対等に話したかっだけなのだから。それを一足飛びに超えて恋人らしい関係を楽しむことなんて、無理に決まっていた。我儘かもしれないけど、やっぱり相手が私を少しも好きじゃないのに付き合うことを強いるなんて、それは凄く嫌なことでしかなかったのだ。

もちろん、偽りの花が咲き誇ったくらいだ、乙女心はいっぱいに満たされ、これでいいと思った時期もあった。

それでも、いつどんな胸をときめかせる場面にも忍び込んでくる良心の呵責に、もう耐えられそうにない。

海藤に本命の彼女がいるのであれば、尚更だ。

おまけに、付き合うことによって見えてきた彼の意外と誠実な人となり、尊敬に値する家庭環境を鑑みると、やはりどうでもこんな歪んだ関係を続けるべきではないという結論に至る。幸せだと感じれば感じるほど大きくなる罪悪感がその証拠だ。

もう、契約を終了させるべき時なのだ。


「……あのね、海藤くんに渡したいものがあって、今日は来たんだけど」

「あ?あー、もしかしてアレ?」


海藤は途端に間の抜けた表情になった。まさかこの場面でこんな告白を受けるとは思っていなかったんだろう。意図してのこととはいえ、自分でもけっこうなKYぶりだなと思う。

とはいえ、今日は海藤も相当この特別な日の恩恵に預かってきたのだろう、読み違えるようなことはしなかった。


「あー……んじゃ、そろそろババアもいなくなってる頃だし、戻るか」

「うん」






テキトーにその辺座って、と示された座布団にちょこんと座って、思わず部屋を見回す。目の前の机には飲みかけのカップ2つ、室温が温まりきっていることからも、さっきまで人がいたことを暗に知らせていた。机の上もそうだけど、雑然とした部屋はお世辞にも片付いてるとは言えず、変な匂いとかはしないけど、足の踏み場もないという言葉がぴったりだ。部屋の隅に置かれた何かのトロフィーが、木彫りの熊やお土産の人形に紛れて飾られている。確か海藤はスポーツが得意だったから、何かの大会で受賞したんだろうか。

まじまじと見ていたら、「げ、あのクソババアー!」と不機嫌を露わにした海藤が顔を見せた。どこかを片付けて回っていたらしい。


「洗濯物ぐらい片してけよな、ったく」


見れば、私の背後の頭上には、下着やらTシャツやらが一緒くたに干されている、吊り下げ式の洗濯物干しがあった。中には海藤自身のものもあるみたいで、素早く目を伏せる。多分顔が赤くなってる気がする。


「ご、ごめんね、私が突然来ちゃったから……」

「はあ?なに謝ってんだよ。全部ババアのせいだからあんたに関係ねーって」


怪訝そうに見下ろされて、私はまた謝りそうになったところを寸でで押しとどめた。

これ以上呆れられるわけにはいかない。


「で、渡したいものって?」


どかっと目の前に座った海藤は、単刀直入に聞いてきた。長くはない付き合いの中で、彼がそれほど情緒を考慮しないのは学習済みだったから、私もすぐに対応できた。


「うん。これ、なんだけど」


鞄に忍ばせていたものがようやく日の目をみる時だった。包みの異なる2つの品を、私は両手で海藤へ差し出した。


「なんだよ、2つもいらねーって」

「でも、気持ち、だから。……あの、開けてもらってもいいかな?」


内心、これから切り出す内容のことで頭が一杯だったけど、海藤が少し照れたように頬をかいて受け取ってくれたのは、ちゃんと見届けることができた。

ガサガサと、初めのピンクの包みから顔を出したのは、有名ブランドの少しお高めなビターチョコ。そして、青い包みからは、いつか送った……そしてさっきも話題に出てきた、あの本が現れた。


「杉田、これ……」

「うん。あのね、海藤くん。私があげた本……返して貰いたいの」


そう、海藤に送ったのは、以前私があげた「届かなかった手紙」という本と全く同じものだった。

海藤は、本と私を交互に見て、これがどういうことか理解しようと努めているように見える。私は履いていたスカートの裾をぎゅっと握り、順番がおかしくならないように整理しながら、海藤の視線へ向けてゆっくりと説明し始めた。


「これ、読んでくれてたの、私ずっと駅で見てた。最初はすごく、その、怖かったんだけど、すごく真剣に読んでる海藤くん見て、だんだん目が離せなくなって。……絶対私となんか話合いそうにないのに、同じ本を読んでるって知ったら、なんだか嬉しくなってきて。それで、話しかけてくれた時も舞い上がって、ついあげる、なんて言っちゃって。……最初は、ほんとにね、それだけで良かったの。私、怖くても、もし……騙されてるんだとしても、海藤くんと話してみたかった」


海藤は、強い視線を逸らすことなく、じっと私の話に聞き入っていた。

まったく茶化す様子も無いので、私がこれから切り出そうとしていることを読まれているのではないかと少し怖気づいてしまう。

それでも、もう止まることはできないし、口にしないでいることも出来ない。

どんな結末を迎えるのであれ、私が言わなければならないことは1つだけだった。


「でも、それは海藤くんの自由や意思を奪ってまでやりたかったわけじゃない。本当は、償ってもらいたかったことなんて何一つ無かった。……だからもう、私への罪悪感なんて、全部無くして。……これが私からの、最後の望み」

「最後?」

「うん。これでお終いにしよう」


声が震えなかったのは上出来だった方だろう。さっきのやり取りも含め、せっかく親しくなってきた矢先に切り出すことではないと、分かっている。でも、偽りなら終わりにしなければ、きっと誰も幸せにはなれないと思った。たとえそれが独りよがりのエゴだとしても。


「……あんたから本貰ったことも、全部すっぱり無かったことにしろってか。今までの関係も全部」


顔を伏せて低く唸る海藤の声は暗い。

でもそれへ怖気付くなんて、許されない。


「たったの一ヶ月ちょっとだよ。きっと、すぐに忘れる。それに……もう、嫌なんだ。私も、海藤くんも、何かを耐えなきゃいけないなんて間違ってる。健全じゃないと思うから」

「……なら結局償いなんて無駄だったってことかよ」

「違う!私は……それでも嬉しかったよ。でもどこかでこんなの間違ってるって、」


会話が上滑りして行く。

本当の想いは置き去りにしたまま、私は彼の言葉を全て否定していかなければならなかった。


「違わねーだろ。償って欲しいことなんか無かった?何かを耐えてんのが健全じゃねーって……なら、あんたのこと考えて連れ回してキスして手繋いで抱きしめて、そういうの全部嫌々やってたってことだよな、なあ?罪悪感無くして、って……ふざけんなよ」

「海藤く……」


バシッ、と海藤は本をその辺に投げつけた。バサっと音を立てて開かれた本は、無残にページをひしゃげさせている。


「俺が……償いなんてもんに付き合ったのは、あんたに許して欲しかったからじゃねーよ」

「え?」

「んなこと考えて一緒にいたわけじゃねぇ」


海藤はそう言って、私の両手を掴んできた。強い視線から逃れられず、後ずさりながらも逆らうことはできなかった。ぎり、と握り込まれた手首が床に押さえつけられ、そのままのし掛かられる。私は海藤を見上げる格好で床に押し倒されていた。


「いたっ!」

「馬鹿にしてたんだろ?結局」

「ち、違う」

「あんたの言う通りに逆らわねえ俺を見て暇つぶししてたんだろうが」

「違うよ……海藤くん、私は本当に嬉しかった!けど、違うの、海藤くんも同じじゃなきゃ嫌だった、私ばっかり嬉しいなんて、間違ってるって」

「嫌じゃねーっつってんだろ!」


海藤はそこで、どこかを痛めたみたいに苦しそうな表情をして叫んだ。


「全部……無かったことにすんのかよ。健全じゃねーもんは全部嘘か?一個も本物じゃないわけ?」

「……ううん。嬉しかった、本当よ。その気持ちだけなら……本物だった」


初めて見る、海藤の悲しそうな表情を見て、私も涙を流していた。

なんてことを言ってしまったんだろうと。

そこで初めて私は、海藤が私以上に誠実に償いの関係へ向き合ってくれていたのだと知った。

嫌じゃない、と、再三口にしてくれた言葉の通り、彼は私が思うよりこの関係を嫌ではないと思っていたのかもしれない。

傷付けた、それだけが明瞭に理解できるような表情の海藤は、少しも力を緩めてくれるような気配はなかった。


(どうすれば良かったんだろう)


お互いが、自然と、なんの躊躇もしがらみもなく出会う道がどこかにはあったのだろうか。


「けどもう、私への償いなんかに、付き合わなくていい。……海藤くんのほんとの思いも、押し込めなくていいから」


それでも今の私からは、別れを促す類の言葉しか出てこない。


「はっ、俺のほんとの思いなんかあんたに分かんの」


鼻で笑われて、痛む手首を気にしながら答えた。


「……私のことを、好きじゃないことくらいは、分かる」


海藤は、一瞬目を見開いて、それから眇めさせた。

口元がにやりと笑みを形作り、それは…高校に入って海藤と再会してから今まで、一度として見せたことはなかった種類の笑みだった。

そう、まるで……あの最悪な中学時代を想起させるかのような。


「あっそ。……あー、お前ってほんと馬鹿だよな。大人しくさぁ、彼女のフリでもなんでもして浮かれてりゃ良かったのに」


その一瞬で、人格までもガラリと変わってしまったかのように極薄な笑み。

今までの朴訥な優しさは、やはり一部でしかなかったのだと容易に思い知らされるような類の。

ゾッと全身に悪寒が走り、ぶわっと冷たい汗が背中に浮く。

それまでの、マメで誠実な海藤に慣れきっていた私は見つめ返すことしかできない。


(どうすれば良かったんだろう、私は)


ああ、懐かしいな、と場違いなことを思った。

目の前にあるのは、私を同じ人間だとは思っていない侮蔑の睥睨。

この瞳に見つめられる恐怖を知っていながら、それでも華やいだ日々の記憶が掻き消されることもなくて。


「そんなに俺のホントのとこが知りてーなら教えてやるよ」


え、と聞き返す前に海藤の手は私の着ているセーターの中へ潜り込んでいた。

手首は一纏めにされて頭上で押し付けられ、冷たい手の平が衣服の下でもそもそと蠢く。


「うそ、でしょ?」


突然の行為に頭が回らない。

でもヒヤリとする手が胸元へ這ってきて、理解せずにいられない。


「うそじゃねーよ。ヤリたかったんだよ。お前が言ったんだからな?終わりにしろって。……俺にとってのこの遊びの終わりはこれだよ。セックス」

「なんで……」

「はあ?なんで?本気で聞いてんの?天然も度を越すとただの馬鹿だよな。ヤリてーからに決まってんだろ。付き合えとか言ってくる女なら簡単にヤレんだろって思ってたの俺はずっと」


少しも感情の端を掴ませない、黒い瞳が、突き刺すように体を見回している。

あの海藤久成が私の体なんかを。

冷たい汗が今度は額にも滲んでいく。

思考が追いつかない。

これは現実なんだろうか?


「だ、だって、だって海藤くん、彼女が……」

「あ?」

「彼女、いるんじゃないの?な、なんで、私」

「そりゃブスで練習してぇからに決まってんじゃん。本命に童貞バレてたまっかよ」


冷水を浴びせられたようだった。

今の自分の状況を理解させられ、まさぐられる不快な感覚がいや増す。

自分の価値なんか一番自分が知ってる。


―――ほんとに俺が、嫌々こんなことに付き合ってると思ってんの?

―――もし俺があんたに言い寄る目的で償うとか言い出してんなら、どーすんのかって思って

―――買いかぶりすぎ。海藤くんだって私に騙されてるかもしれないんだから

―――そっか。……そう、だな


いつだったか彼が私に問いかけたことが、いくつか当てはまっていたのだと真実を知っても、ショックに思う必要なんか無いはずだ。

現実はこんなものだと知っていて「償い」を持ちかけた。いつか終わると分かっていて偽りの花を咲かせた。

その全て、海藤の中でも真実なんかじゃ無いと分かっていたからここまで続けられたはずだった。

それなのに。


(胸、痛い)


いつの間にか勘違いして希望でも抱いていたというのだろうか。

少なくとも、「本当に好きになった」と彼が言いだしてくれるのでは無いか、そんな有り得もしない言葉を待っていた程度には。


「いい機会だろ、お前にとっても?この先捨てる機会もあるかわかんねーような処女なら俺で捨てとけよ。……なあ、これも償いの内に入るよな?」

「…………」


ぐす、と鼻を啜って泣きながらかぶりを振る私に、もう海藤は優しい慰めをかけてはくれなかった。わかっていて切り出した別れなのに、辛くて仕方がない。

獰猛な火を宿した海藤の顔が涙で見えないのは、せめてもの救いだ。ただ乱暴に性急に暴かれていく体の痛みを感じながら、シミの浮かぶ天井を見つめて歯を食いしばった。

熱く冷えていく体を弄る手は、ずっと冷たいままだった。





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